聖書日課 サムエル記上6章(新共同訳 旧約pp.435-437)
ペリシテの人々に大きな災いをもたらした「主の箱」は、町から町へと次々にたらい回しにされた挙句、「七か月の間」ペリシテの野に放置された。彼らは、「主の箱」をどう取り扱えばよいのか、さっぱり分からなかったのである。
そこで、彼らはダゴンの「祭司たちと占い師たちを呼んで」、対処法を「尋ね」ることにした。
「主の箱は、七か月の間ペリシテの地にあった。ペリシテ人は、祭司たちと占い師たちを呼んで尋ねた。『主の箱をどうしたものでしょう。どのようにしてあれを元の所に送り返したらよいのか、教えてください』」(1~2節)。
「イスラエルの神の箱」なのだから、イスラエルの祭司に尋ねるのが筋である。しかし、彼らはどこまでも真の神に心を向けようとはしなかった。
ダゴンの祭司と占い師たちの提案は、神の箱を「賠償の献げ物と共に」「雌牛二頭」の背に乗せてイスラエルに返還せよというものであった(3節、7~8節)。そうすれば、「この大きな災難」がイスラエルの神の手によるものか、「偶然の災難か」が明らかになり、災いから逃れることが出来るというのである(9節)。
しかし、この時彼らが「賠償の献げ物」としたのは、何と「金」で造った「はれ物」と「ねずみ」であった。それは聖書が教えている動物のいけにえとは似ても似つかぬ代物だった。〈地獄の沙汰も金次第〉ということだろうか。まさに彼らにとって主なる神は〈祟りの神〉でしかなかった。
ともあれ、こうして神の箱は、ようやくイスラエルのもとに帰って来ることになった。「二頭の雌牛」の背に乗せられた「主の箱」を見たイスラエルの人々は、大いに「喜ん」で「主の箱」を迎え入れた(10~13節)。
ところが、ここでも悲劇が起こってしまった。それは「主の箱」を迎えた人々が「主の箱の中をのぞいたからである」。それ故、「七十人の民」が「打たれ」て死んだ(19節)。結局、彼らも「主の箱」の取り扱い方を知らなかったのである。
考えてみれば、今でも多くの人々が、主なる神とどのような関わりの中で歩んだらよいのか分からないまま生きている。多くの人にとって、主なる神は人間に祟りをもたらす怖い存在でしかなく、恵みと慈しみに富む主なる神との愛と信頼の交わりから遠く離れてしまっている。主なる神は、御言葉と十字架によって私達にはっきり愛と恵みを示して下さった。ここに祝福の道がある。救いの門がここに開かれている。だから、御言葉と十字架にしっかり目と心を向け続けていきたい。
西原新生バプテスト教会
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