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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨシュア記20章

聖書日課 ヨシュア記20章(新共同訳 旧約pp.370-371)

 12部族への土地分割が終わると、主なる神はヨシュアに、「逃れの町」を設置するように命じられた。「逃れの町」とは、「意図してではなく、過って人を」死に至らせた人が、「復讐をする者」の手から逃れて正当な裁判を受けるために設けられた町である。ヨルダン川の東側に3箇所、西側のカナンの地にも3箇所設置された(7~8節)。

「主はヨシュアに仰せになった。イスラエルの人々に告げなさい。モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、意図してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる」(1~3節)。

 故意に人を殺した者は、自らの命をもって償わなければならない。しかし、過失による致死の場合、この「逃れの町」に逃げ込んで、「町の長老たち」「その訳を申し立て」て認められれば、町の中にいる限り、「たとえ血の復讐をする者が追って来ても」、その人は「引き渡」されずに済んだ(4~5節)。

 その一方で、「逃れの町」に逃げ込んだ人は、正当な「裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまでは」、この町から出ることは許されなかった(6節)。これは、実質的な刑罰に相当する措置でもあったと考えることが出来る。

 いずれにしても、この町は、人々に正当な裁きを受ける権利を保障するためのものであり、イスラエルの人々」だけでなく、「彼らのもとに寄留する者」も、皆同様に扱われた(9節)。現代風に言えば、人権が保障されたということである。

 また、この町は、社会が復讐の連鎖に陥らないための緩衝剤の役目を果たしていたと考えることも出来、神の民の平和を保つ機能もあった。まさに主なる神の知恵の現れと言うことが出来る。

 最後に、「逃れの町」にはもう一つ見逃してはならない大切な意味があった。それは、「その時の大祭司が死ぬ」と、「逃れの町」にいた殺害者は解放され、自分の家に帰ることが出来た。「大祭司」は、イスラエル民族の代表として主なる神の御前に立つ者であり、イスラエルの罪を贖う役割を持った人物である。つまり、彼の死は、まさに身代わりの死であり、それは、真の大祭司イエス・キリストの十字架による身代わりの死を指し示していた。

 その意味では、「逃れの町」は、私達のための町でもあったと言うことが出来る。何故なら、この町はまさに主なる神の愛と赦しと救いの現れであったのだから。

ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマの信徒への手紙10章13節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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