聖書日課 申命記13章(新共同訳 旧約pp.302-303)
偶像礼拝に気をつけよ。異教の神々を礼拝してはならない。主なる神は、この命令を何度も繰り返しておられる。それは、主なる神が真の礼拝者を求めておられるからである。イスラエルをエジプトから導き出したのも、そのためであった。
とはいえ、何の誘惑もない無菌状態のような環境でそれを求めておられるのではない。偶像を拝む人々がいる中で、真の礼拝者であることを主なる神は命じられる。
他の神々の方が魅力的に見えることがあるかも知れない。藁をもすがるような思いで、手当たり次第に神々と呼ばれるものを求めることがあるかも知れない。そのような誘惑がある中で、真の礼拝者であることを主なる神は命じられる。13章では、そのような誘惑をする者があることが警告されている。
第一は、偽の「預言者」による誘惑である。彼らは「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘惑してくる。
「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、『あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない」(2~6節)。
第二は、〈家族〉や「親友」からの誘惑である。
「同じ母の子である兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に、『あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』とひそかに誘われても、その神々が近隣諸国の民の神々であっても、地の果てから果てに至る遠い国々の神々であっても、誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。このような者は必ず殺さねばならない。彼を殺すには、まずあなたが手を下し、次に、民が皆それに続く。あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出したあなたの神、主から離して迷わせようとしたのだから、彼を石で打ち殺さねばならない。全イスラエルはこれを聞いて、恐れを抱き、あなたの中でこのような悪事は二度と繰り返されることはないであろう」(7~12節)。
第三は、民の中から出てくる「ならず者」からの誘惑である。
「あなたの神、主があなたに与えて住まわせるどこかの町のうわさとして、あなたの中からならず者が現れて、『お前たちの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』と言って、その町の住民を迷わせているということを聞いたならば、それを尋ね、探り、よく問いたださねばならない。それが確かな事実であり、そのようないとうべきことがあなたたちの中で行われたのであれば、その町の住民を剣にかけて殺し、町もそこにあるすべてのものも滅ぼし尽くし、家畜も剣にかけねばならない。分捕り品をすべて広場の中央に集め、分捕り品もろとも町全体を焼き払い、あなたの神、主に対する完全に燃やし尽くす献げ物としなければならない。その町はとこしえに廃虚の丘となって、再び建てられることはない。主が激しい怒りをやめ、あなたに憐れみを垂れ、先祖たちに誓われたとおり、憐れみをもってあなたの数を増やされるように、その滅ぼし尽くすべきものは何一つ手もとにとどめてはならない。あなたの神、主の御声に聞き従い、わたしが今日命じるすべての戒めを守り、あなたの神、主が正しいと見なされることを行いなさい」(13~19節)。
いずれの場合も動じてはならない。ただ主なる神だけを礼拝しよう。それが、主なる神を愛することである。夫以外の男性と付き合うことは、夫を愛することにならないのと同様である。妻だけを愛し通すことは、真実な礼拝者の生き方に通じるものである。
主なる神が、このような世界に敢えて私達を置かれるのは、私達が「心を尽くし、魂を尽くして」、「主を愛するかどうかを知」るためである。
誘惑があるからこそ、「心を尽くして」愛する。誘惑もなく、他の神々もない環境で、ロボットのように機械的に愛することは、薄っぺらな愛である。
他にも愛する可能性のある異性がいる中で、自分を選び、自分だけを愛してくれるからこそ、愛され、かつ愛する喜びがある。選択する自由がある中で、敢えてこの相手を愛そうとするからこそ、愛することの重みがある。
主なる神は、敢えて私達に自由をお与えになった。罪を犯す自由もあれば、犯さない自由もある。偶像を礼拝する自由もあれば、主なる神だけを礼拝する自由もある。
その自由の中から、主なる神を愛することを選ぶからこそ本当の愛である。他の神々を愛する自由(誘惑)もあるからこそ、「心を尽くし、魂を尽くして」主なる神を愛する。そのような愛を育てようと、主なる神は願っておられる。
西原新生バプテスト教会
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