聖書日課 出エジプト記36章(新共同訳 旧約pp.154-156)
36章には、真に喜びに満たされた人々の姿が描かれている。それは、「必要以上の物」を献げようとする姿に表された喜びである。また、「有り余るほど」の「物」が満ちていることに表された喜びである。
「モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および主から心に知恵を授けられた、心に知恵のあるすべての者、すなわち、心動かされたすべての者をこの仕事に従事させるために呼び集めた。彼らは、イスラエルの人々が聖所建設の仕事を行うために携えて来たすべての献納物を、モーセから受け取ったが、人々はなおも、毎朝、随意の献げ物を彼のもとに携えて来たので、聖所のあらゆる仕事に携わる知恵のある者は皆、それぞれの仕事場を離れて来て、モーセに言った。『この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上の物を携えて来ます』。モーセが宿営に、『男も女も、聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない』との命令を伝えさせたので、民は携えて行くのをやめた。既にささげられた物は、作業全体を仕上げるのに十分で有り余るほどあった」(2~7節)。
全ての教会が、このような喜びと祝福に溢れていたら、どんなに素晴らしいことだろう! また、全ての人の心が、他の人に「必要以上の物」を与えたいという喜びに満たされていたら、どんなに美しいことだろう!
しかし、こういう箇所は、注意しないと、「だから、献金しましょう!」「頑張って奉仕しましょう!」「伝道しましょう!」という呼びかけになってしまう。
勿論、献金も、奉仕も、伝道も、とても大切である。決して軽んじられてはならないものばかりである。しかし、私達は、主なる神や教会や隣人のために何かをする前に、主なる神が私達のためにどんなに大きなことをして下さったかにこそ目を向ける必要がある。そうでないと、これらは皆、主なる神の恵みによる業ではなく、人の頑張り、或いは人間の強制になってしまう危険性がある。そういう世界では、競争が生じたり、主なる神がほめたたえられるよりも、人が賞賛されてしまうということが起こってくる。いわゆる〈教会のカルト化〉は、そういうところから始まる。
主なる神が私達のためにどんなに素晴らしいことをして下さったか。聖書の教えの中心は、そこにある。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙一4章10節)。
西原新生バプテスト教会
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