聖書日課 創世記21章(新共同訳 旧約pp.29-31)
遂に、アブラハム夫妻に待望の男の子が誕生した。アブラハムは、その子をイサクと名付けた。
「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した」(1~4節)。
「イサク」という名前には、「笑い」という意味があった。それは何とも嬉しそうな名前である。しかし、アブラハムとサラの「笑い」は、最初から嬉しそうなものではなかった。
主なる神が、99歳になったアブラハムに現れ、「あなたに男の子を与えよう」と告げられた時、アブラハムは主なる神の御前に「ひれ伏し」ながら、「ひそかに」「笑って」こう言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(17章15~17節)。
また、主なる神がアブラハムに、「来年の今ごろ、…あなたの妻サラに男の子がうまれているでしょう」と告げた時、これを聞いていたサラも「ひそかに笑った」。「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」と記されている(18章10~12節)。
このように、彼らの「笑い」は、喜びや楽しみから生まれたものではなく、絶望と不信から湧いてきた皮肉な笑いであった。しかし、そのような彼らに対し、主なる神はこう宣言された。
「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」(18章14節)。
そして、この宣言通り、翌年アブラハムとサラの間に待望の男の子が誕生した。
勿論、アブラハムとサラは大喜びした。サラは「わたしは子を産みました/年老いた夫のために」と言い(7節)、アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた(8節)。そして、この時サラはこう言った。
「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう」(6節)。
この「笑い」は、絶望でも皮肉でもなく、喜びに満ち溢れた心の底からの「笑い」であった。主なる神は、この夫婦の絶望と不信の「笑い」を、希望と喜びに満ちた明るい「笑い」に変えられた。私達の信仰生活にも、時折、絶望的な情況や出来事が襲ってくることがある。しかし、主なる神は、主に信頼する者と共にいて、必ず絶望の「笑い」を希望の「笑い」に変えて下さる。主に不可能なことは何一つないからである。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章28節)。
西原新生バプテスト教会
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