聖書日課 創世記18章(新共同訳 旧約pp.23-25)
ソドムの町には、アブラハムの甥のロトとその家族が住んでいた。アブラハムは、主なる神が、ソドムとゴモラの町をその「非常に重い」罪の故に滅ぼそうとしていることを知ると(20~22節)、主の御前に進み出て、必死で主なる神に執り成しをした。
「アブラハムは進み出て言った。『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか』」(23~25節)。
この必死の叫びに、主なる神も即座に答えて下さった。
「主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう』」(26節)。
さて、これを聞いて、アブラハムは安心しただろうか? そうではなかった。アブラハムは、なお主なる神に願った。
「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか」(28節)。
アブラハムは、更に主なる神に食い下がるようにして願い続けた。そして、アブラハムと主なる神の間で、このようなやり取りが重ねられ、遂に、10人の正しい者がいれば、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」という主なる神の言葉をいただいた(32節)。
何という必死さ! 何という覚悟! そして、何という大胆さだろう! 事が起きた時にどういう行動をとるか、そこに人の本質が現れる。これは、アブラハムの信仰の真実さと本気さが現れた行動と言えるだろう。
このアブラハムの執り成しの姿を見る時、私は、自分自身も、そのような必死で本気で真実な信仰の執り成しによって、赦され、守られ、生かされていることを思わされた。聖書にこう記されているからである。
「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ人への手紙7章25節)。
イエス・キリストが、私達のために十字架で命を献げて下さり、今も天において父なる神の御前で執り成して下さっている。私達の平安の源はここにある。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
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