聖書日課 創世記7章(新共同訳 旧約pp.9-10)
その日は突然襲って来た。主なる神が警告されたように、全地が大洪水によって覆われてしまったのである。
「七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」(10~11節)。
しかし、イエス・キリストが「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」と言われたように、「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」するといった、地上の事柄で頭がいっぱいで、誰も主なる神の声に本気で耳を傾けなかった(マタイによる福音書24章39節)。
イエス・キリストは、「人の子が来る場合も、このようである」と言われている(同24章39節)。これはイエス・キリストの再臨と最後の審判の日を指して語られた言葉である。その日も、ノアの洪水の日と同じように、人々はそのようなことには全く目もくれず、この世のことで頭がいっぱいになって生きているというのである。
イエス・キリストを信じるとは、そのような気配が全く見えなくても、また、周りの人がそのようなことに何の興味も関心も示していなくても、主なる神の言葉に信頼し、その日がいつやって来ても安心して迎えられるように備えつつ生きることである。それ故にこの世の人々から嘲笑されることもあるかも知れない。しかし、真実はやがて明らかにされる。その日が来ることを待ち望みつつ、どこまでも主なる神に信頼し続けること、そこに信仰がある。
ノアとその家族は、雨が降り始めたその日に箱舟の中に入った(7節)。主なる神が命じられた通り、彼らと共に動物や家畜も、それぞれ二つずつ箱舟に入った(8~9節)。そして、この時、「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」(16節)と記されている。それによって、箱舟に乗った人々の命を守るためである。箱舟の中の生活は、窮屈で、退屈で、とても寛げるようなものではなかっただろう。そのため、もし主が戸を閉じられなかったら、ノアの家族はその窮屈さに耐えかねて、そこから外に出て、主の恵みによる救いから落ちてしまったかも知れない。
私達の信仰生活にも、そのような危険がある。つまり、信仰生活が、退屈で、窮屈なものに感じられることがある。しかし、それは私達にとって必要な束縛であり、守りなのではないか。主が戸を閉められなければ、私達はいつの間にか誘惑に負けて恵みから外れてしまうような弱さを持っている。そう考える時、箱舟の中に閉じ込められたのは、主なる神の愛故の守りと助けであることが分かる。
西原新生バプテスト教会
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