聖書日課 創世記2章(新共同訳 旧約pp.2-3)
人間は主なる神の被造物であると聖書は語る。そして、人間が「土(アダマ)の塵」(7節)から造られたものであるという認識は、私達を謙遜にさせる。人間の理性がどんなに素晴らしいものであっても、主なる神の御前に謙る心を忘れてはならない。何故なら、それは主なる神からいただいたものだからである。そして、この自覚を失う時、人は驕り高ぶり、滅びに向かうことになる。
その一方で、聖書は、主なる神が人間の「鼻に命の息を吹き入れ」て、「人」は「生きる者となった」とも述べている(7節)。これは、人間が「神にかたどって」、神に「似せて」造られた霊的・人格的な存在であることを意味している(1章26~27節)。つまり、私達は、主なる神に愛され、主なる神を愛する関係の中で、互いに交わり、語り合いながら生きる者とされている。
この人間に関する2つの見方は、以下のことにもよく表れている。
「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」(9節)。
「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」(18節)。
主なる神が人を置かれたエデンの園には、「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木」が生えていた。また、主なる神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われ、男の「あばら骨」から「女を造り上げ」て「連れて来られ」た(21~22節)。つまり、主なる神は、私達が幸せに生きるために必要なものを全て前もって用意して下さる御方である。何故なら、主なる神は恵みと愛に満ちておられるからである。
しかし、それと共に、主なる神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(16~17節)と言われている。これは、人が主なる神の教えから反れて死に至ることがないようにという警告である。被造物である人間は、造り主である神が定めた善悪に従うべきであり、自分の都合の良いように判断して滅びに至ることがないようにと、主なる神は人間に呼びかけておられる。
主なる神にどこまでも信頼し、その教えに従って生きる幸いを、じっくり味わいながら歩み続けたい。
西原新生バプテスト教会
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