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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

主日礼拝宣教 2021年9月26日

主日礼拝宣教 2021年9月26日
イザヤ書41章10節(新共同訳 旧約p.1126)
「人生における恐れ」

 聖書の中には「恐れるな」という言葉が365回出てくると言われることがある。そのことから主なる神は私達を毎日「恐れるな」と励ましておられるというメッセージを語る牧師もいる。逆に言えば、「恐れるな」という言葉がそれほど沢山出てくるというのは、私達が恐れを抱くことがいかに多いかを示している。人生にはどのような恐れがあるだろうか。

1. 死に対する恐れ

 第一に、人生には死に対する恐れがある。死に対する恐れは、何と言っても、人間の根本的な恐れである。
 多くの人が死を前にして、或いは死のことを考えて、恐れを感じる。死の恐ろしさは、肉体の痛みや苦しみ、愛する人や出来なかったことを残して、この世を去る無念さと共に、死んだらどうなるかが分からないことへの恐れではないだろうか。
 私には3歳年上の兄がいた。しかし、私が生まれて2か月後に電車にはねられて死亡した。私の幼少期の記憶は、家に仏壇があり、その上に兄の遺影があったことから始まっている。私は遺影を指さし、両親に「この子は誰?」と訊いた。両親に私の兄であると聞くと、「何故お兄ちゃんは今ここにいないの?」と尋ねた。両親は悲しそうな顔をして、「お兄ちゃんは死んで、遠い遠い所に行ってしまったんだよ」と答えてくれた。その時以来、私は、死について考えるようになった。兄は死んだ後どこへ行ったのだろう。そして、自分もいつか死ぬ、明日かも知れない。自分は死んだらどうなるのだろう。
 兄のほかにも、私の周りには若くして死を迎えた人が何人かいた。私が小学生の時、従兄が脳腫瘍で、近所の子が心臓の病気で死亡した。それに対し、「考えてもどうせ分からない。考えるから怖いのだ」と自分を習い事や塾で忙しくし、余計なことを考えず、〈今を生きること〉に集中しようとした。しかし、何かの拍子に死のことがふと心の隙間に入り込んできた。その度に「どうせ死んでしまうのに、何故こんなことをしているのだろう」という気持ちになり、暫く何もする気が起こらなかった。
 聖書は「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と言っている(ヘブライ人への手紙9章27節)。人間は死んで終わりではない。無になるわけでも、何かに生まれ変わるわけでもない。死後、主なる神の「裁きを受けることが定まっている」というのである。多くの人は、このことを無意識のうちに感じているから、死を恐れるのではないか。

2. 過去に対する恐れ

 第二に、人生には、自分の過去の罪、過ちに対する恐れがある。自分が過去に犯した罪のことで恐れている人は多いのではないか。
 福岡で牧師として仕えていた頃、末期がんの男性のお見舞いをしたことがある。彼は病床で「もっと家族を大切にしておくべきでした。今になってこんな大事なことに気が付くなんて……」と涙を流しながら言われた。この方のように、死の間際に過去を後悔する人は多いのではないか。或いは、人知れず密かに犯した罪のことで不安を抱いている人もおられるかも知れない。
 聖書は「主は、闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、心の中の企てをも明らかにされます」と言っている(コリントの信徒への手紙一4章5節)。過去の罪の問題がまだ解決されていなければ、不安が私達の心を針のように刺し続ける。

3. 将来に対する恐れ

 第三に、人生には将来に対する恐れがある。
 今日仕事のことで不安を抱いている人は多い。飲食業や観光業の方は、新型コロナウィルス感染症の影響で、時短営業、休業、更には閉店に追い込まれていった。それ以外の業種においても、インターネット上には、新型コロナウィルスやAIの影響でどのような仕事がなくなるか、或いは今後もニーズがあるかに関する記事や動画が山ほどある。 私自身、他人事ではない。以前私は生活協同組合で勤務していた。その頃、レジ業務で1か月一度も違算を出さかったということで店長から表彰され、賞与をいただいたことがあった。しかし、今レジは無人化が進んでおり、「レジを速く正確に打てる」というスキルは無意味なものになりつつある。
 現在従事している教育関係の仕事においても、塾や予備校で〈秘伝〉のように教えられてきた知識を、今インターネットで簡単に入手出来るようになった。私が高校生の頃、大教室が常に満席で、すぐに締切になった超人気予備校講師の講義を、今YouTubeで無料で見ることが出来る。また、新型コロナウィルスの問題以降、オンラインによる授業が一気に浸透した。〈教える〉という仕事自体はなくならないとしても、ごく少数の教室と講師だけで事足りるようになるかも知れない。
 勿論、自分の老いや健康のことで不安を抱いている方もいる。また、自分の家族のことで不安を抱いている人もいる。福岡で牧師として仕えていた頃、引きこもりの女性から毎日電話をいただいたことがあった。彼女はお母さんと二人暮らしで、お母さんの年金で生活していた。しかし、「お母さんが死んだら、自分は餓死するしかない」と不安を吐露された。お母さんの方も、彼女の今後のことがずっと気がかりであったに違いない。

4. 人に対する恐れ

 第四に、人生には人に対する恐れがあるのではないか。人の目や評価が気になるという恐れである。
 私自身、長い間そのような恐れを抱いていた。「あの人に自分はどう思われているだろうか」といつもオドオドしていた。そして、そのような自分を受け入れることが出来ず、結果的に生き方が消極的になり、劣等感に悩まされていた。また、偏差値が高い学校の人、外見が恰好良い人、活躍している人を妬んでは、自己嫌悪に陥っていた。
 聖書は「人を恐れると、わなに陥る」(箴言29章15節、口語訳)と言っている。この世には、人を恐れて、暗い人生を送っておられる方が多いのではないか。

5. 恐れからの解放

 私達の人生には、このように様々な恐れがある。では、どうすればこのような恐れから解放されるだろうか。それはイエス・キリストを自分の主として信じることによってである。
 イエス・キリストは主なる神の御子であられるが、主なる神に背いている私達を罪から救うためにこの世に来られた。そして、私達の身代わりとなって十字架で死んで下さった。それだけでなく、三日目に死人の中から甦られた。聖書はこう言っている。

「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマの信徒の手紙4章25節)。

 また、イエス・キリストはこう言われた。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネによる福音書5章24節)。

 私達はイエス・キリストを主と信じることによって、罪から救われ、永遠の命を受け、いつまでも主なる神と共に生きることが出来る。イエス・キリストに結ばれる時、私達は、主なる神が私達と共にいて、助け、支え、励まして下さる方であることを知る。私達は弱い存在である。しかし、イエス・キリストによって人生の恐れから解放される。

「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」(イザヤ書41章10節)。