聖書日課 エフェソの信徒への手紙2章(新共同訳 新約pp.353-354)
パウロは、本章の初めで、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)と言っている。ここでの死とは、肉体の死ではなく、霊的な死を指しており、命の源である主なる神との交わりの断絶を意味する。
それだけではない。主なる神との交わりが断絶するということは、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩」むことでもある(2節)。エフェソは、偶像の支配する町であった。そこで救われたキリスト者も、以前は偶像を拝み、偶像に支配される生活をしていた。それ故、パウロは次のように言った。
「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(3節)。
これが、聖書の言う死の意味であり、肉体の死は、その結果である。このような意味で、私達は皆、生まれながら死んだ者だった。
私達の肉体は生きているので、「死んでいた」と言われてもピンと来ないかも知れない。そして、そのために、救いや永遠の命がどんなに素晴らしく、どんなに価値あるものかもよく分かっていないということはないだろうか。その意味でも、私達は、聖書の言う死と滅びの意味を明確に理解し、受けとめることが大切である。そうして初めて、私達は、主なる神の恵みの大きさが分かる。
主なる神は私達を憐れみ、愛して下さったので、霊的に死んでいた私達をイエス・キリストと共に甦らせ、イエス・キリストと共に天の栄光の御座に着く祝福までも与えて下さった。
「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、──あなたがたの救われたのは恵みによるのです──キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになって慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです」(4~7節)。
私達は恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救われた。そして、この信仰も、ひとえに主なる神からの賜物である。主なる神は救いの全過程を司っておられるので、私達は救いに関して決して誇ることは出来ない。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(8~9節)。
西原新生バプテスト教会
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