聖書日課 コリントの信徒への手紙一8章(新共同訳 新約pp.309-310)
コリントは偶像礼拝の盛んな町だった。しかも、「偶像の神殿」(10節)では、性的乱交などキリスト者が決して関わってはならないことが平然と行われていた。
ところが、コリントのキリスト者の中には、偶像の神殿に行き、「偶像に供えられた肉」(1節)を出している食堂で食事をする人がいた。彼らは「自分達は別に偶像を拝んでいるわけではない。そもそも『偶像の神』(4節)など実在しないのだから、迷信に振り回されず、『自由』(9節)に生きるべきだ」と主張した。
確かに、「唯一の神以外にいかなる神もいない」(4節)。しかし、彼らの主張は、罪を思弁によって正当化しようとするもので、コリント教会を大きな混乱と危機に陥らせた。偶像礼拝から身を避けようとしていた人達までが、それに引き込まれるという状況が生まれていた。
それに対し、パウロは、他の兄弟を「罪に誘う」(9節)行為は、他の兄弟に対する罪、イエス・キリストに対する罪であると指摘する。
「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(9~12節)。
イエス・キリストを信じることは、他の兄弟を愛することと切り離せない。そして、どのような罪であれ、それを正当化するために、「知識」を用いてはならない。罪の正当化は、自分と周囲の人を罪の牢獄に閉じ込める。
「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」(1~3節)。
罪を罪として認め、主なる神の御前にひれ伏す時、罪の鎖が断ち切られる。自分が何かを知っていることよりも、イエス・キリストが私達の全てを知り、受け入れて下さっていることを知る。これに勝る喜び、祝福はない。
西原新生バプテスト教会
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