聖書日課 コリントの信徒への手紙一6章(新共同訳 新約pp.305-306)
コリント教会の中に蔓延る罪の実情は深刻であった。ところが、彼らは罪と戦い、それを取り除くことから逃げていた。そして遂に、信者同士が互いに相手を裁判所に訴えるというような事態さえ起きてしまっていた(1節)。
ここでもパウロは、厳しく罪を指摘している。しかし、それは決して軽蔑や諦めの思いからではない。それどころか、パウロはコリントのキリスト者に対し、次のように語っている。
「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません」(2~3節)。
パウロは、彼らが主なる神の御前に「聖なる者」とされており、「世を裁」き、「天使たちさえ裁く者」なのだと訴えた。その上で、パウロは次のように言った。
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(7節)。
勿論これは、諦めや無気力の勧めではない。真に主なる神を信じ、拠り頼んでいるなら、騙されようと、酷いことをされようと、恐れたり怒りに駆られたりしないということである。イエス・キリストは、裁判にかけられた時、ご自分を弁護することを一切されなかった。天の父に全てを委ねて生きておられたからである。つまり、自分が主なる神の御前にどうであるかが何よりも大事なことである。
パウロは、本章の後半で、「娼婦と交わる」(16節)という「みだらな行い」(13節、18節)を続けていたキリスト者に向かってこう問いかけている。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(19~20節)。
キリスト者は皆、御子イエス・キリストの十字架という「代価を払って買い取られ」、「聖霊が宿ってくださる神殿」とされた者である。それは主なる神の圧倒的な恵みによる。この恵みを真に味わい知る時、そのような不品行は出来なくなる。それが恵みに生かされるということであると、パウロは彼らに知って欲しかったに違いない。
西原新生バプテスト教会
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