ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 ルカによる福音書2章

聖書日課 ルカによる福音書2章(新共同訳 新約pp.102-105)

 ルカによる福音書の1~2章には、イエス・キリストや洗礼者ヨハネの誕生にまつわる出来事が沢山記されている。今日はその中から、イエス・キリストの少年時代のエピソードを取り上げたい。

 それは、イスラエルの三大祭りの一つである過越祭の日の出来事であった。ヨセフとマリアは、毎年この祭りの時には、ベツレヘムの村人達と共に一家総出でエルサレムに上って行った(41節)。イエス・キリストが12歳になった時も、一家はいつものようにエルサレムに行った(42節)。ところが、祭りの期間が終わって帰路についた時、両親はイエス・キリストエルサレムに残っているのに気付かないまま、一日分の道のりを行ってしまった(44節)。

「大事な息子がいないことに気付かないなんて、何と不注意な親なんだ!」と思われるかも知れない。彼らは大勢の村人達と一緒に団体行動を取っていた。だから、イエス・キリストの姿が見えないことは気になったけれども、きっと付いて来ているに違いないと思っていたのだろう。

 私達もヨセフやマリアと同じようなことはないだろうか。つまり、忙しさの中で、イエス・キリストを忘れ、置き去りにしたまま、自分達だけで歩んで行ってしまうということが。そして、或る時突然、イエス・キリストがいないことに気付き、大慌てで探し回るようなことはないだろうか。

 ヨセフとマリアも、イエス・キリストがいないことに漸く気付き、捜しながらエルサレムにまで戻って来た。すると、少年イエス・キリストは、神殿の境内で学者達に囲まれて、話を聞いたり質問したりしていた(46節)。この時、母マリアは少年イエス・キリストに言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(48節)。

 思わず息子に文句の一つも言いたくなる親の気持ちは分からないではない。しかし、本来なら、息子を置き去りにした両親にこそ責任がある。これもまた、自分の責任は棚に上げて、主なる神に文句を言ってしまう私達の姿に似ているかも知れない。

 しかし、この時イエス・キリストはお答えになった。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。

 主なる神の御子イエス・キリストが自分の父の家にいるのは当たり前である。忘れてしまうのは、私達人間の方である。だから、今日も父なる神の御許に行き、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に歩んでいきたい。