聖書日課 マルコによる福音書7章(新共同訳 新約pp.74-75)
「イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」(27節)
これを読んで、「小犬にだって食べる権利はある!」と、動物好きの人が批判するようなことはないと思う。しかし、この「小犬」が一人の女性を指していると聞いたら、「イエス様ともあろう御方が何と失礼なことを! 女性蔑視もいいところだ!」と批判する人はいるかも知れない。
しかも、彼女は、この時イエス・キリストの足もとにひれ伏し、悪霊に取りつかれた自分の娘を助けて欲しいと懇願していた(25~26節)。それなのに、どうしてイエス・キリストはこのように言われたのだろうか。
この時、イエス・キリストは、ガリラヤを離れてティルスの地方に行かれ(24節)、暫く休みを取っておられたようである。そこにやって来たのがこの女性で、彼女はギリシア人だった(26節)。つまり、ここでイエス・キリストが「子供たち」と言われたのはユダヤ人のことである。そして、この女性を「小犬」と呼ばれたのは、彼女が異邦人だったからである。では、イエス・キリストは民族差別をしていたのだろうか。勿論、そういうことでもない。
この時イエス・キリストは、明確な目的をもって、このように言われたに違いない。では、その目的とは何か。それは、この女性の信仰を引き出し、明らかにすることである。
この女性は、イエス・キリストの言葉を聞くとすかさずこう言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(28節)。
何という機転、何という謙遜、そして、何という必死な求めだろうか。小犬呼ばわりされたにもかかわらず、彼女はそれをそのまま受け入れた。しかも「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と、なおもイエス・キリストに求めたのである。これは本物の信仰である!
「そこで、イエスは言われた。『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。』」(29節)
この言葉はマタイによる福音書では次のように記されている。
「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(マタイによる福音書15章28節)。
謙遜に、必死に、どこまでも求め続ける信仰に、イエス・キリストは喜んで応えて下さる。