ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

聖書日課 マタイによる福音書1章

聖書日課 マタイによる福音書1章(新共同訳 新約pp.1-2)

 今日から新約聖書を読んでいく。新約聖書は〈系図〉から始まる。読み辛い名前が並んでいるので、いきなり躓く人もいるかも知れない。

 しかし、旧約聖書を知っているなら、この系図に喜ぶ人も多いだろう。これは、アブラハム以来、いや人類の堕落以来、約束されて久しく待ち望まれてきた救い主の系図だからである。

 旧約聖書最後のマラキ書が書かれてからイエス・キリストがお生まれになるまでの約400年、新たに主なる神の御言葉が語られることはなかった。この時代は〈中間時代〉と呼ばれている。また、主なる神の御言葉が語られなかった暗黒の時代と言われることもある。

 しかし、だからと言って、主なる神が約束を反故にされたわけでも、主なる神の御業がなくなってしまったわけでもない。救い主誕生の約束は、暗黒の時代と呼ばれる中間時代にも、実現に向けて着々と進められていた。それ故、マタイによる福音書系図は、主なる神の支配と御業は決して途切れることがなく、主なる神は私達を決して見捨てないということを伝えている福音(グッド・ニュース)でもある。

 18節からは、救い主イエス・キリストの誕生の出来事が記されているが、これについて、マタイはこう言っている。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(22~23節)

 主なる神は預言者を通して、インマヌエルと呼ばれる救い主をこの世に生まれさせて下さることを約束された。インマヌエルは「神は我々と共におられる」という意味である。つまり、主なる神はどんな時にも私達と共におられ、私達の味方となり、命を懸けて愛して下さるということである。イエス・キリストがお生まれになったのは、実にそのためである。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマの信徒への手紙8章31~32節)

 このイエス・キリストを、あなたも迎え入れているだろうか。