ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 ゼカリヤ書12章

聖書日課 ゼカリヤ書12章(新共同訳 旧約pp.1492-1493)

 ゼカリヤ書の最後の3章(12~14章)は、終末におけるエルサレムの救いと勝利と清めを語る励ましのメッセージである。ここでは、「その日」という言葉が何度も語られることによって、終末におけるイスラエルの勝利が強調されている。

 その日、主なる神はエルサレムを「周囲のすべての民を酔わせる杯」(2節)とし、また「あらゆる民にとって重い石」(3節)とし、更に「薪で火を噴く鉢のように、麦束で燃え上がる松明のようにする」(6節)と宣言された。それによって、エルサレムに立ち向かう者は皆、深い傷を負うと約束された(3節)。

 勿論これは、決して人の力によって出来ることではない。主なる神ご自身がエルサレムをそのような者にすると約束して下さったのである。では、一体何によってそれは可能となるのか?

「その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」(9~10節)

 主なる神は、聖霊を注ぐことによって神の民を力づけ、聖霊の導きと力によって、神の民に勝利と清めを与えて下さる。それはペンテコステの日に成就した(使徒言行録2章)。主はイエス・キリストを信じる全ての者の上に聖霊を注ぐことによって、清さと力に満たされて生きる者と造り変えて下さる。

 しかし、私達が聖霊を受けて清めと力をいただくために、どうしても必要なことがある。

「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」(10節)

 私達は、一人一人、自らの罪を認め、自分の罪がイエス・キリストを十字架にかけたことを知ることなしに信仰の道を歩むことは出来ない。この罪を自覚し、痛みを知る者であるからこそ、主なる神の恵み深さと慈しみの大きさを味わい知る者となる。主なる神への感謝と従順はそこから生まれる。そして、その時、聖霊が私達の上に降り、私達は聖霊に満たされて生きる者とされる。