聖書日課 ゼカリヤ書7章(新共同訳 旧約p.1486)
神殿再建工事が再開されて2年が経った頃、ベテルの人々から次のような質問が出された。「わたしたちは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか」(3節)。
これまでイスラエルの人々は、都と神殿が破壊されたことを嘆いて、毎年数回にわたる断食の時を持っていた。しかし、再び神殿が建て上げられようとしている今、断食を続けるべきかどうかと問うてきたのである。その時、ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。
「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも/あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが/果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」(5~6節)
確かに、彼らは断食を実行してきた。しかし、それは「真にわたしのため」であったのかと主は問いかけ、更にこう言われた。
「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり/やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない」(9~10節)
主なる神が望まれる断食とは、単に食を断つという苦行のことではなく、心から主に仕え、正義と愛をもって生きることであった。その意味で、断食は、神殿が再建されてもされなくても継続されるべきことだった。それ故、ベテルの人々が、神殿再建を見越して断食の是非を問いかけたこと自体、彼らが真実の意味で断食を行ってこなかったことを明らかに示していた。
勿論、それは今に始まったことではなかった。主なる神は最初から神の民イスラエルに、そういう生き方を願っておられた。ところが、彼らは、心を硬くして主の御声に耳を傾けようとしなかった。そのために、イスラエルは滅び去ってしまった。
今、私達の生き方はどうだろうか。私達の祈りや奉仕は、誰のために献げられているだろうか。私達が自分自身のためしか考えようとしていないとすれば、そこに真の恵みと祝福が注がれることはない。主なる神が真に望んでおられるのは、私達が、主を愛し、正義を愛して、互いに労り合い、憐れみ深く生きることである。