ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ハバクク書1章

聖書日課 ハバクク書1章(新共同訳 旧約pp.1464-1465)

 主なる神がいるなら、どうしてこのように悪が世に蔓延るままになっているのだろう? 悪者が正しい人を取り囲んでいるのに、何故主なる神は悪者を裁いて正しい者を助けて下さらないのか? 本当に主なる神は私達の祈りを聞いて下さるのか? (2~4節)…「このような疑問を持つなんて、ハバククは不信仰だ!」という声が聞こえてきそうな書、それがハバクク書である。

 しかし、よく考えてみると、このような疑問は、この世を適当に生きている人には決して浮かんでくるものではない。人生を真実に生きようとするからこその疑問である。つまり、預言者ハバククは、主なる神と人の前に真実な生き方を貫こうとしたからこそ、こういう疑問を率直に主なる神にぶつけたのである。

「何故?」「どうして?」という疑問が浮かぶこと自体は、決して不信仰ではない。不信仰かどうかは、その疑問をどこに向けるかによる。ハバククは、その疑問を主なる神に向かって問いかけた。その疑問を通して主なる神に向き合ったのである。それは現実の信仰の姿と言えるのではないか。何故なら、信仰は、主なる神に心を向け、耳を傾け、真剣に主なる神から答えを聞こうとすることだからである。不信仰者は、主なる神に心を向けることも、向き合うことも、答えを聞こうとすることもない。

 このハバククの問いかけに、主なる神は答えられた。

「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る」(6節)

 これは、主なる神がカルデヤ人(新バビロン帝国)を用いてイスラエルの罪を裁くということである。ところが、この答えは、ハバククに更なる疑問を湧き上がらせた。神の民イスラエルを裁くために、カルデヤ人を用いるなど不公平ではないか。彼らは私達よりもっと悪いではないか!

 このように、ハバククは主なる神に向かって率直に疑問をぶつけた。そして、その結果、遂に主なる神からの答えを見出した(2章2~4節)。主なる神に向かって問いかけ、主なる神から答えを得ようと待ち望む者に、主なる神は必ず答えて下さる。この主なる神に、私達は真剣に問いかけているだろうか。主なる神に心を向け、主なる神と向き合って生きているだろうか。