聖書日課 ホセア書10章(新共同訳 旧約pp.1414-1416)
10章はイスラエルに対する裁きの預言である。イスラエルは豊かになるにつれて、見た目はどんどん華美になったが、その心は偶像に向けられ、主なる神に対して偽りの誓いを立てていた(1節)。それ故、主なる神は彼らの偽りの罪を罰し、厳しい裁きを下されようとしていた(2節)。
勿論、主なる神は初めからイスラエルを裁こうとしていたわけではない。それどころか、主なる神はイスラエルを深く愛し、彼らが豊かな実を結ぶことを期待しておられた。
「エフライムは飼い馴らされた雌の子牛/わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。わたしはその美しい首の傍らに来た。エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように」(11~12節)
このように、主なる神は、イスラエルが主を求め、主の恵みに溢れて、愛の実りをもって世界中を満たすことを期待しておられた。神の民イスラエルはそのためにこそ選ばれたのだから。しかし、イスラエルはこの主なる神の期待を全く裏切ってしまった。
「ところがお前たちは悪を耕し/不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ」(13節)
主なる神の御前に謙ろうとせず、「自分の力と勇士の数を頼り」にする者は、やがて必ず「悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べ」ることになる。イスラエルは、主なる神に拠り頼み、主なる神に従って生きようとせず、自分達の力を誇り、自分達の好きなように歩んだ。その意味で、まさに彼らは「伸びほうだいのぶどうの木」(1節)であった。何の手入れもされないために、その姿も結ぶ実も不恰好で、真の豊かさに欠けたものでしかなかった。
さて、私達はどうだろうか。偽りの繁栄や上辺だけの美しさに浮かれていることはないだろうか。私達も、主なる神の御前に謙り、主なる神の御声に聞き従うことがなければ、イスラエルと同じ滅びの道を歩むことになる。だからこそ、イスラエルの民の教訓を決して忘れてはならない。