聖書日課 エゼキエル書48章(新共同訳 旧約pp.1376-1378)
エゼキエルが見た最後の幻は、新しいイスラエルの各部族への土地の割り当てに関する幻であった。
神の民にとって、土地は主なる神のものであり、主なる神から授け与えられる祝福である。それ故、その割り当ても、主なる神の導きに従い、主なる神がお命じになるままに行われなければならなかった。
人間が自分の欲と力によって土地を得ようとすると、必ず争いが起こり、混乱が生じ、或る場合には経済の破綻が起こることもある。それは人間の歴史の中で繰り返されてきた悲劇であり、現代社会においても同じ過ちが繰り返されている。
しかし、これは土地だけのことではない。私達の体も命も、生きる環境も、全ては主なる神によって造られたものであり、主なる神によって授けられたものである。それ故、私達はこれらのものを自分の思うようにするのではなく、主なる神からの授かりものとして、主なる神の御心に従って大切に受けとめて取り扱わなければならない。
そのような理解に立つ時、私達は初めて貪欲や自己中心から解放されて、自由にのびのび自分に授けられた人生を生きるようになるのではないだろうか。そうでないと、私達は、自分が頑張らなければ、自分の力で何とかしなければ、という思いに捕らわれて不安と緊張の中で生きることになる。
本書の最後の35節で、新しいイスラエルの都の名は「主がそこにおられる」と呼ばれると言われている。
主がそこにおられる、それが神の民イスラエルの本質である。主がそこにおられるところに、主の御業が行われる。人間の力や人間の業ではなく、主の御力と御栄光がそこに現れるのである。
エゼキエルはこの幻をはっきりと見た。都も神殿も破壊され、放置され、廃墟のままとなっているその時に見たのである。私達も、主なる神がお与え下さる幻をはっきり心に抱きつつ、望みをもって歩んでいきたいものである。