聖書日課 エゼキエル書46章(新共同訳 旧約pp.1373-1374)
本章は、前章に続いて、イスラエルの君主に関する規定、特に礼拝と献げ物についての務めが記されている。
それによると、君主は、安息日やその他の祝日には、外から門の廊を通って中に入り、祭司たちが献げ物をささげている間は門柱の傍らに立ち、その後、門の敷居の所で礼拝するように命じられている(2節)。
国を治める指導者が果たすべき第一の務めは主なる神を礼拝することであると聖書は教える。〈政〉(祭りごと)とは、まさにそういうことを意味する言葉である。現代の政治不信や政治家の不正の根本は、国を治める指導者が〈まつりごと〉をしなくなってしまったこと、つまり、主なる神を礼拝せずに、自分の力で、自分の思いのままに国を動かそうとしていることにあると言えるのではないだろうか。
また、君主がささげるべき献げ物について、こう命じられている。
「君主が、安息日に主にささげる焼き尽くす献げ物は、無傷の小羊六匹と無傷の雄羊一匹である」(4節)
「新月の日にささげるものは、無傷の雄牛の子一頭、そして、小羊六匹、雄羊一匹である。これらも無傷でなければならない」(6節)
どのような種類の献げ物をささげるとしても、君主がささげる献げ物は、無傷のものでなければならないと言われている。つまり、最良のものということである。それこそが、主なる神にささげるものとして最も相応しいからである。
特に小羊の献げ物に添えてささげられる穀物については、こう言われている。
「小羊については、そのときに可能なだけの穀物をささげねばならない」(7節)
自分の出来る限りのものをささげること、それが小羊の献げ物に添えてささげる穀物の献げ物についての規定であった。イエス・キリストは、レプトン銅貨2枚をささげた貧しいやもめの献金を賞賛してこのように言われた。
「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(ルカによる福音書21章3~4節)
献げ物は、量ではなく質、そして、出来る限りを尽くそうとする心にその本質がある。