聖書日課 エゼキエル書43章(新共同訳 旧約pp.1367-1369)
神殿は単なる建物ではない。神殿が神殿である所以は、そこに主なる神がいまし、主なる神の栄光が満ちているかどうかにある。たとえどんなに荘厳な建物であっても、どんなに多くの人々がいたとしても、そこに主なる神の栄光が満ちていなければ神殿ではない。
これは現在の教会でも同じである。教会は、建物ではなく、主イエス・キリストを信じて救われた者の交わりである。そして、その交わりの中に主なる神の栄光が満ちているところ、それがキリストの体である真の教会の姿である。
建物の立派さや大きさは関係ない。人の多さや少なさということとも違う。どんなに人が沢山いても、そこに主なる神の栄光が満ちていなければ、単なる人の集いでしかない。また、どんなに人が少なくても、そこに主なる神の栄光が満ち溢れるなら、それが真の教会である。では、一体何がその違いを生み出すのだろうか。
かつてモーセが幕屋を建てた時、主の栄光が幕屋に満ちたために、モーセは臨在の幕屋に入ることが出来なかったと記されている(出エジプト記40章34~35節)。それは、主が命じられた通りに、彼らが幕屋を建設したからであった。
同様に、教会は人間の思いや考えによって築かれるものではなく、主なる神の御心によって建てられるものである。私達が主なる神の導きを求め、主なる神の御教えのままに生きる時、教会の交わりの中に主なる神の栄光が満ち溢れる。
使徒言行録に記されているように、教会は、人々に聖霊が注がれることによって誕生し、聖霊の導きに従った人々によって建て上げられていった。イエス・キリストの弟子達の信仰と従順があったので、そこに主なる神の栄光が満ち溢れたのである。主の御声に聴き従うこと、そこに主なる神の栄光が現される。