ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エゼキエル書36章

聖書日課 エゼキエル書36章(新共同訳 旧約pp.1353-1354)

 本章は、イスラエルの復興の預言である。

「主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる」(33~34節)。

 イスラエルは、度重なる罪のために主なる神の裁きを受け、バビロンによって滅ぼされた。都も神殿も完全に破壊され、風前の灯となったイスラエルの姿を見て、諸国の民は嘲笑い、罵詈雑言を浴びせかけた。その惨めな姿を見て、一体誰が、彼らの復興を信じることなど出来ただろうか。

 しかし、主なる神はイスラエルの人々に言われた。

「しかし、お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近である」(8節)。

 イスラエルの民にとっての唯一の希望、それは主なる神の御言葉だった。どんなに状況は暗くとも、主なる神の御言葉が語られる時、そこに希望が湧き上がる。御言葉が語られる時、暗さは暗さでなくなるからである。そして、その御言葉の通り、やがて彼らは約束の地に帰還し、荒れ果てた地を復興して、豊かな作物を実らせるようになった。

 しかし、彼らの復興は、単に外面的なことにあったのではない。真の復興は、彼らの内側、彼らの「心」の中にこそ起こった!

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(26~27節)。

「新しい心」「肉の心」とは、主なる神の御言葉を受け入れ従う従順な心のことである。それまで「石」のように頑なだった心が「取り除」けられて、柔らかな「肉の心」「与え」られる。それは主なる神の御業であり、主なる神の約束である。そして、それこそが神の民の復興の本質である。その時、主なる神は言われた。

「お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」(28節)。

 主なる神との心と心の結び付き、それこそが神の民であることの本質である。

祈り
 天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かい御手に導かれ、御前に引き出されたこと、祈りを与えて下さることを心から感謝致します。

 主よ、罪の中で暗闇を愛し、あなたを否定して倒れ、絶望し、廃墟のようになっていた私を、あなたは握り、建て直して下さいました。主よ、今も行われるあなたの再建の業、永遠の愛の業をほめたたえ、心から感謝致します。

 主よ、今も倒れて立ち上がれずにいる方、廃墟のような生活と心の中で絶望している方がおられます。主よ、あなたの目をお一人お一人に注ぎ、その生活と心にあなたの命を注ぎ、建て直して下さい。お一人お一人にあなたにある新しい心、新しい実存を与え、あなたを喜び歌うことが出来るよう、満たし、導いて下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
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聖書日課 エゼキエル書35章

聖書日課 エゼキエル書35章(新共同訳 旧約pp.1353-1354)

 35章には、エドムに対する裁きの預言が記されている。「セイル山」エドムにある山で、エドムを指して使われている。エドムに対しては、25章でも同様の預言が記されている。しかし、ここではイスラエルの回復の預言が語られる中で、イスラエルにとって脅威であった周辺諸国の代表とも言えるエドムが、主なる神の裁きによって滅ぼされることが語られている。

「わたしはセイル山を荒れ果てた廃虚とし、行き来する者がないようにする。わたしは山々を殺された者で満たす。お前の丘にも谷にも、あらゆる谷間にも、剣で殺された者が倒れる。わたしはお前を永久に荒れ果てた地とする。お前の町々には住む者がなくなる。そのとき、お前たちは/わたしが主であることを知るようになる。それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた」(7~10節)。

 エドムは、ヤコブの双子の兄エサウの子孫である。イスラエル人の近親であったにもかかわらず、彼らは、イスラエルがバビロンの攻撃を受けた時、バビロンに協力してエルサレムを攻撃した。彼らは、イスラエルとユダを自分達のものにしようと企んでいた(10節)。彼らはイスラエル「果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡した」(5節)。

 しかし、彼らの企ては実現しなかった。何故なら、「そこに、主がおられた」からである(10節)。イスラエルの主が、そこにおられ、エドムの憎しみと貪欲に対して裁きをもって報いられた。

「それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる」(11節)。

 たとえ憎しみと「ねたみ」をもって神の民を攻撃しようとする者がいたとしても、イスラエルを愛する主がそこにおられ、彼らの企てを失敗に終わらせる。そして、その憎しみと「怒りとねたみに応じて」、彼らに裁きを下される。

「しかしそこに、主がおられた」…これは、主を愛する者にとっては希望のしるしであり、主なる神に敵対する者にとっては、失敗と滅びのしるしである。

「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒言行録18章10節)。

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聖書日課 エゼキエル書34章

聖書日課 エゼキエル書34章(新共同訳 旧約pp.1352-1353)

 本章には、イスラエルの回復が預言されている。1~10節はイスラエルの悪しき指導者への宣告、11~22節は主なる神自らが「牧者」となって「自分の群れ」「世話をする」という宣言、そして23節以降はダビデ王国の回復の預言となっている。

「『そのとき、彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である』と主なる神は言われる」(30~31節)。

 イスラエルの滅びは、彼らが主なる神に逆らって罪を犯し続けたことに原因があった。その中でも最も重い罪は、王をはじめとする国の指導者にあった。彼らは、神の民を正しく導き養うことなく、却って人々を虐げ苦しめて、自分達だけが豊かになっていた。

 主なる神はそのような悪しき牧者を取り除けると言われた。イスラエル「群れ」を救い出して、彼らの餌食にさせないためである。そして、主なる神「自ら」が、彼らの「牧者」となり、「ちりぢりになっ」た彼らを「探し出し」「世話をする」と宣言した。

「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」(15~16節)。

 これはまさしく、主イエス・キリストの姿そのものである。イエス・キリストがこの世に来て下さったのは、失われた者を探し出して救うためであり、病気の者を見つけ出して癒すためである。そしてそのために、御自分の命を十字架の上に献げ尽くして下さった。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10章10~11節)。

 主イエス・キリストは、私達のために「命を捨て」て下さった。それは、私達が「命」を得るため、しかも「豊かに受けるため」である。主イエス・キリストこそ、真の牧者、真に「良い羊飼い」である。この良い牧者を知り、その声を聞き分け、その声に従う時、私達は豊かな「命」に満ち溢れる。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かい御手に導かれ、あなたの御前に祈りを与えられることを心から感謝致します。

 主よ、あなたは私の牧者です。私には何も欠けることがありません。主よ、あなたは私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに導いて下さる御方です。

 主よ、あなたは、私の魂を生き返らせ、御名に相応しく、私を正しい道に導いて下さいました。

 たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。あなたが共にいて下さるからです。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づけます。

 主よ、あなたは、私を苦しめる者、悪魔を打ち倒し、私のために食卓を整え、私の頭に溢れる聖霊の油を注いで下さいました。私の杯はあなたの御霊と喜びに溢れています。

 主よ、私の命がある限り、私があなたの恵みと慈しみを求めるのではなく、あなたの恵みと慈しみの方が私を追いかけ、私を満たして下さいます。私は、とこしえにあなたの家に帰ります。とこしえにあなたに留まります。

 感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 エゼキエル書33章

聖書日課 エゼキエル書33章(新共同訳 旧約pp.1349-1352)

 本章には「見張りの務め」という見出しが付けられている。「見張り」とは、主なる神が遣わす預言者であり、預言者の務めは人々に「警告」を与えることであると言われている。

「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する』」(1~3節)。

 主なる神は罪を裁かれる。しかし、主なる神は、裁きの手を下す前に必ず「警告」をお与えになる。何故なら、主なる神は罪人をなお愛して下さり、「悪人」の滅びを決して喜んではおられないからである。

「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(11節)。

 これが主なる神の御心である。或いは、主なる神の本音の叫びと言ってもいいかも知れない。主なる神は、悪に陥って滅びようとしている人が、「悪しき道から」「立ち帰って生きること」を強く願い、呼びかけておられる。

 そのためにこそ、主なる神は預言者をお遣わしになった。つまり、預言者とは、悪人に向かって、主なる神の熱い思いを伝える者である。

 今この預言者の務めは、教会とキリスト者一人一人に受け継がれている。主イエス・キリストの十字架による救いと恵みをいただいている私達は、その救いの喜びと豊かな恵みを、他の人にも伝える使命が与えられている。

 父なる神は、罪の道を歩んでいた私達を、なお愛し、なお赦して、永遠の救いと祝福を与えるために、御自分の独り子を遣わし、私達の身代わりとして十字架にかけて下さった!

 最愛の者をも差し出すほどの、激しく、深く、大きな愛。そのような愛に包まれ、守られ、満たされた喜びを全ての人に伝えていくこと、それが私達に与えられている使命である。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かな御心によって包み、御前に引き寄せ、祈りを与えて下さることを心から感謝致します。

 主よ、今日も御前に罪を告白します。どうか、この心と行動の汚れをお赦し下さい。あなたの十字架の御血によって清め、新たに生かして下さいますよう、心からお願い申し上げます。

 罪を赦されたあなたの子供として、尊厳に満ち、また、謙遜に満ちて、悔い改めながら毎日を生活することが出来るよう、助け導いて下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 エゼキエル書32章

聖書日課 エゼキエル書32章(新共同訳 旧約pp.1347-1349)

 本章もエジプトの裁きに関する預言である。前半の1~16節では、「エジプトの王ファラオ」に対する「嘆きの歌」が、後半の17~32節では、「エジプトとその貴族たち」が滅ぼされて「地の低い所に下」ると宣告されている。

「わたしはエジプトの地を荒廃させ/その地を満たしているものを荒れるにまかせる。わたしがそこに住むすべての者を撃つとき/彼らは、わたしが主であることを知るようになる」(15節)。

 自分達は誰よりも美しいと思っていたエジプトが、そして、多くの国々に恐れられるほどの軍勢を誇っていたエジプトが「荒廃させ」られるのは何のためだろうか。それは、「わたしがそこに住むすべての者を撃つとき/彼らは、わたしが主であることを知るようになる」と言われているように、イスラエルの主こそが真の神であることを彼らが知り、認め、畏れるようになるためである。

 全ての人にとって最も重要なことは何か。それは、私達の造り主なる神を知り、畏れ、主と共に生きることである。主なる神はこのことを教えるために、預言者を送り、御言葉を与え、様々な出来事を通して語り続けておられる。そして、もしこの大切なことを妨げるものがあるならば、主なる神はそれらのもの一切を打ち砕いて取り除かれる。

 エジプトは自分達の力を誇り、自分達の美しさに自惚れていた。確かに彼らは美しく、その力は多くの国々に恐れられるほど大きく強いものだった。しかし、彼らの誇りは、主なる神を知り、畏れ、敬うことを妨げていた。それ故、主なる神は彼らの誇りを打ち砕き、「彼らを地の低い所に下らせ」た(18節)。

 21節以降には、かつてその力の故に恐れられていた国々の名前が列挙され、こう言われている。

「…彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者/割礼のない者で、地の最も低い所に下って行く。生ける者の地で恐れられていたが/穴に下る者と共に恥を負う」(24節)。

 まさに〈驕れる者も久しからず〉、主なる神を畏れ敬うことを知らない者の行く末は皆このようである。

「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる」(ホセア書6章3節)。

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聖書日課 エゼキエル書31章

聖書日課 エゼキエル書31章(新共同訳 旧約pp.1345-1346)

 エジプトは美しく偉大な国だった。その美しさと偉大はレバノンの杉」に喩えられ、「その枝は美しく、豊かな陰をつくり、丈は高く、梢は雲間にとどいた」と言われている(3節)。それ故、「多くの国民が皆、その木陰に住」み(6節)、「神の園エデンのすべての木もうらやんだ」とさえ言われている(9節)。これはイスラエルとユダを指しているものと思われる。

「第十一年の三月一日に、主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に向かって言いなさい。お前の偉大さは誰と比べられよう。見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。その枝は美しく、豊かな陰をつくり/丈は高く、梢は雲間にとどいた』」(1~3節)。

 しかし、エジプトの繁栄は決して彼らの能力や努力によるものではなかった。7節で「丈は高く、枝は長く伸びて美しかった。豊かな水に根をおろしていたからだ」と言われている。つまり、それは主なる神の豊かな恵みの賜物であり、主なる神の栄光の現れとしての繁栄だった。だから、もし彼らが主なる神に栄光を帰していたなら、彼らの繁栄はもっと続いていたに違いない。

 ところが、彼らはその美しさと偉大さに「驕り高ぶった」

「それゆえ、主なる神はこう言われる。彼の丈は高くされ、その梢を雲の間に伸ばしたので、心は驕り高ぶった。わたしは彼を諸国の民の最も強い者の手に渡す。その者は彼を悪行に応じて扱う。わたしは彼を追放する」(10~11節)。

 人も国も、主なる神によって造られ、主なる神の栄光を現すために存在している。それ故、私達が主なる神の御前に謙ることを忘れて自分自身を誇るなら、人も国も存在の意味を失うことになる。主なる神はそのようなものに厳しい裁きを下される。それによって、彼らが主なる神を知るようになるために(31章8節)。

「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ書43章7節、新改訳)。

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリントの信徒への手紙二10章31節)。

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聖書日課 エゼキエル書30章

聖書日課 エゼキエル書30章(新共同訳 旧約pp.1344-1345)

 前章に続いて、エジプトに対する主なる神の裁きの預言が記されている。1~19節には、「エジプト」及びその同盟国の敗北と荒廃が、20節以降には、「エジプトの王ファラオの腕」が折られる一方で、「バビロンの王の腕」「強く」されることが記されている。

「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。泣き叫べ、ああ、その日は災いだ。その日は近い。主の日は近い。それは密雲の日、諸国民の裁きの時である。剣がエジプトに臨み、戦慄がクシュを襲う。エジプトで、人々は刺されて倒れ/富は奪い去られ、国の基は覆される。クシュ、プト、リディア、諸種族の群れ、クブおよびその他の同盟国の住民も、彼らと共に剣で倒れる。主はこう言われる。エジプトを支える者は倒れ/その驕れる力は覆る。ミグドルからセベネに至るまで/人々は剣に倒れる、と主なる神は言われる』」(1~6節)。

 特に前半の預言は、バビロンがエジプトに遠征する直前の預言と思われるが、「その日は近い。主の日は近い。それは密雲の日、諸国民の裁きの時である」と警告されている(3節)。

 しかし、そのような日が来るなどとは、エジプトの人々も、その同盟国も、本気には考えていなかったのではないか。というのも、エジプトは千年以上にもわたって、高度な文化と強い軍事力と豊富な経済力を誇る超大国であり、同盟諸国にとっては、まさに〈寄らば大樹の陰〉と言うべき存在だったからである。

 しかし、それは私達も同じではないか。聖書は、世の終わりが来ることを明確に告げている。しかし、そのような日が来ることを、私達は日頃どれほど意識して生きているだろうか。恐らく、多くの人は日常の雑事や目の前のことで一杯になっているというのが現実ではないか。

 勿論、目の前のことを蔑ろにしてよいということではない。仕事も家族も大切である。しかし、それと共に私達は、もっと広く大きな観点から、人生や世界を見つめることも大切である。そうでなければ、私達はどうしても目に見えることだけに縛られて行き詰まってしまう。

 主の御前に謙り、心静かに主の御声に耳を傾け、人生や自分自身、人々や世界を見つめ直す。そのような時間を日々大切に保ち続けたいものである。

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聖書日課 エゼキエル書29章

聖書日課 エゼキエル書29章(新共同訳 旧約pp.1342-1344)

 本章には、「エジプト」に対する主なる神の裁きの宣告が記されている。

「第十年の十月十二日に主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、あなたの顔をエジプトの王ファラオに向けて、王とエジプトの全土に対して預言し、語って言いなさい。主なる神はこう言われる。エジプトの王、ファラオよ/わたしはお前に立ち向かう。ナイル川の真ん中に横たわる巨大なわによ/お前は言う。「ナイル川はわたしのもの/わたしが自分のために造ったものだ」と。わたしはお前の顎に鉤をかけ/うろこにナイル川の魚をつけさせ/ナイル川の真ん中から引き上げる/お前のうろこについた川のすべての魚と共に。わたしはお前を荒れ野に捨てる/ナイル川のすべての魚と共に。お前は地面に倒れたままで/引き取る者も、葬る者もない。わたしは野の獣、空の鳥に/お前を食物として与える』」(1~5節)。

 エジプトは、旧約時代、アッシリアやバビロンと並ぶ世界の大国として栄えた。しかし、今その「エジプトの地は荒野に変わり、廃墟となる」と告げられている(9節)。

 どうして、そのようなことになってしまうのか? それは、彼らがナイル川はわたしのもの/わたしが自分のために造ったものだ」と言ったことに原因があった。前章のティルスに対する裁きで見たように、彼らもまた、高慢という罪に陥ったために主なる神の裁きを受けることになった。

 エジプトは、ピラミッドをはじめ、天文学、数学、医学、農業などにおいて、非常に高度な文化を誇る国だった。彼らはナイル川流域で畑を耕し、豊富な農作物によって豊かに暮らしていた。しかし、どんなに高度な文化があったとしても、それはナイル川が与える恵みを利用しての文化であり、彼らがナイル川そのものを造ったわけではない。

 そのような当たり前のことを棚上げにして自分の力を誇るようになるのが、高慢という罪の愚かさであり、恐ろしさである。エジプトもアッシリアも、バビロンもティルスも、アンモンもモアブも、エドムもペリシテも、そして、神の民イスラエルでさえも、皆高慢の故に主なる神の裁きを受けることになった。それほどに、高慢は人間の内側深くに巣食う罪の根である。

「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ書6章8節)。

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2024年2月11日(日) 週報

2024年2月11日(日) 降誕節第7主日

○礼拝プログラム
招詞 イザヤ書35章1~2節
讃美 67(よろずのもの とわにしらす)
交読 詩編66編1~20節(新共同訳 旧約pp.897-898)
主の祈り
聖書拝読 ヨハネによる福音書9章1~12節(新共同訳 新約pp.184-185)
祈り 柏本隆宏協力牧師
暗唱聖句 ペトロの手紙一2章24節
讃美 142(さかえの主イエスの 十字架をあおげば)
宣教 「イエス・キリストの眼差しのもとで」柏本隆宏協力牧師
讃美 494(わが行くみち いついかに)
祈り
奉献
頌栄 544(あまつみたみも)
祝祷 柏本隆宏協力牧師
報告

○2月の暗唱聖句
「そして、十字架にかかって、自らその身に私達の罪を担ってくださいました。私達が罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」(ペトロの手紙一2章24節)

○報告
1. イエス・キリストを主と信じ、バプテスマを受けることを希望される方、また西原新生教会への転入会を希望される方は、柏本協力牧師までお申し出下さい。
2. 今週2月14日(水)の「灰の水曜日」よりイエス・キリストの十字架の道行きを覚えるレント(受難節)に入ります。十字架の恵みを覚えつつ祈りを深めて参りましょう。なお、今年のイースター(復活日)3月31日(日)です。
3. 『黎明宣教会便り』が届いています。各地に遣わされている3人の宣教師の方々のことを祈りに覚えましょう。
4. 病と闘っておられる兄弟姉妹を覚えて癒しと快復をお祈り下さい。
「彼(イエス・キリスト)はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイによる福音書8章17節)。
5. ブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージを載せていますので、日々の聖書通読の一助としてご参照下さい。
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○聖書日課
11日(日) エゼキエル書29章
12日(月) エゼキエル書30章
13日(火) エゼキエル書31章
14日(水) エゼキエル書32章
15日(木) エゼキエル書33章
16日(金) エゼキエル書34章
17日(土) エゼキエル書35章

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聖書日課 エゼキエル書28章

聖書日課 エゼキエル書28章(新共同訳 旧約pp.1340-1342)

 本章に、ティルスの王が、高慢になって「わたしは神だ」と言ったことが記されている。普通の感覚からすれば、「わたしは神だ」などと言い出したら、気が変になったと思われても不思議ではない。しかし、自分を神と思うかどうかは別として、高慢とは、自分を神とすることと同じである。

「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。「わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう」と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった』」(1~5節)。

 エデンの園で、蛇の誘惑に陥ったエバとアダムが、主なる神が「決して食べてはならない」と警告していた「善悪の知識の木」の果実を取って食べた時、彼らは自分達が「神のように」「なること」を望んだ(創世記3章)。

 彼らの行動の本質は、主なる神の警告に逆らって、事の善悪を自分で決めようとするものであった。それは自分を主なる神の位置に置く行為であり、そこに人間の罪の本質=高慢の始まりがある。主なる神に造られた者が神になろうとすること、そこに高慢の本質がある。それは、主なる神の導きに聞き従おうとしないところから始まる悲劇の道である。

「お前の心は美しさのゆえに高慢となり/栄華のゆえに知恵を堕落させた。わたしはお前を地の上に投げ落とし/王たちの前で見せ物とした」(17節)。

 ティルスは、「美し」く、「栄華」に溢れたところだった。「お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた」とさえ言われている(13節)。それほど主なる神に祝福されていた彼らが、「地の上に投げ落と」され、「見せ物」とされてしまう。それが高慢という罪の恐ろしさである。

 主なる神に造られた者として生きること、私達の真の幸福はそこにある。主の御前に謙り、主の愛と恵みに包まれて歩むこと、それが主なる神に造られた者の本来あるべき姿である。そこから決して離れてはならない。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かい御手の中に握り、御前に祈りを与えて下さることを心から感謝致します。

 主よ、あなたは、私がこの生涯で知らなければならない全てとなって下さいました。あなたに目を向け、あなたが握り、背負って下さることを知る時、私の中の全てがあなたに満たされます。主よ、あなたは私にとっての神の知恵、神の義、聖め、贖いとなって下さいました。

 主よ、いよいよあなたご自身によって満たして下さい。あなたに満たされ、あなたに導かれ、あなたに背負われる生涯の一歩を、今日も進めることが出来ますように。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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