ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 詩編102編

聖書日課 詩編102編(新共同訳 旧約pp.938-939)

 人生に痛み、心沈む時、私達は孤独を感じる。「荒れ野のみみずく、廃墟のふくろうのように」たった「ひとり」でこの苦しみを通らなければならないかと思うと、やるせない思いに満たされる。

「わたしは呻き/骨は肉にすがりつき/荒れ野のみみずく/廃墟のふくろうのようになった。屋根の上にひとりいる鳥のように/わたしは目覚めている」(7~8節)。

 この詩の作者は、そのような思いに満たされていた。そして、その嘆きをそのまま主なる神の御前に注ぎ出して祈っている。飾らないそのままの声を主に聞いていただいている。

 詩編には、喜びに満ちた歌と、痛みと嘆きに満ちた歌の両方が含まれている。両方あるから、私達は安心して詩編を読むことが出来る。詩編の作者も、私達と同じ心を持った人間であることが分かるからである。

 私達も、自分の思いをそのまま主の御前に申し上げることが出来る。

 主なる神は、私達の飾らない、そのままの声、そのままの心を「顧み」、その祈りに耳を傾けて下さっているからである。

「国々は主の御名を恐れ/地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。主はまことにシオンを再建し/栄光のうちに顕現されます。主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした」(16~18節)。

 主なる神は、あなたの「祈りを侮られ」ない。私達の嘆きを無視されない。孤独の中から絞り出すような私達の声を全て聞き取り、それをしっかりと握って下さっている。

 あなたは「ひとり」ではない。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛に包まれ、御前に引き出して下さったことを、心から感謝致します。

 主よ、人生に痛み、孤独を感じる時、あなたこそ、私達の傍にいて下さる方、私達の嘆きと苦しみの声を決して蔑ろにされない方です。

 主よ、あなたに向かって心の中の思いを注ぎ出すことが出来るよう、助けて下さい。この痛みをあなたに向かって申し上げることが出来る勇気をお与え下さい。

 聞いて下さっているあなたの大きな愛を信じることが出来ますように。

 痛みの中にあるお一人お一人と今日も共にあって、その存在を根底から支え、その声に答えて下さい。あなたでなければ与えることの出来ない解決をお一人お一人に与え、あなたご自身が満ちて下さいますよう、心からお願い致します。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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聖書日課 詩編100編

聖書日課 詩編100編(新共同訳 旧約p.937)

 第99編同様、礼拝への招きの詩である。

「【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(1~2節)。

 礼拝は、単なる義務ということ以上に、何よりもまず「喜び」の時である。誰に言われるまでもなく、自ら進んで献げたくなるもの、それが礼拝である。

 何故礼拝は「喜び」なのか。その理由はどこにあるのか。願いが叶ったからか。それとも奇跡が起こったからか。確かにそれらも大切かも知れない。しかし、それよりももっと大切な理由は、主なる神と私達の間の特別な関係(交わり)にある。

「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ」(3節)。

「主のもの」とされている平安、「主に養われる羊」としての幸い、そのような体験と自覚が、礼拝の「喜び」を湧き上がらせるに違いない。そして、「主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ」とあるように(5節)、「恵み」「慈しみ」に富む主なる神を、より深く知れば知るほど、主なる神の「感謝」「賛美」が心の奥底から湧き上がってくるに違いない。それ故、この詩の作者は強く勧める。

「感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ」(4節)。

 ハレルヤ!

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聖書日課 詩編99編

聖書日課 詩編99編(新共同訳 旧約pp.936-937)

 短い詩の中で3度繰り返し、「主は聖なる方」と言われている。そして、その都度、「御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ」「我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ」「我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ」と、礼拝への呼びかけと勧めがなされている。

「主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。主の祭司からはモーセとアロンが/御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと/主は彼らに答えられた。神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方」(1~9節)。

 つまり、この詩は、主なる神の素晴らしさと偉大さをほめたたえる詩であると共に、神礼拝への招きの詩でもある。

 主は「力強い王」であると共に、「裁きを愛し」「公平を固く定め」る偉大な神である。しかし、主なる神は、「主を呼ぶと/主は彼らに答えられた」とあるように、人を赦し、人と交わり、人に報いる恵みの主でもある。それが「聖なる方」と言われる主なる神の偉大さであり、素晴らしさである。だからこそ、主なる神はほめたたえられるべき方であり、礼拝を受けるに相応しい方である。

 主なる神の偉大さの前に畏れおののくと共に、主なる神の恵みの中に親しく交わり、祈り、呼びかける。それが礼拝である。そして、そこに礼拝に生きる者が味わうことの出来る祝福と喜びがある。

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聖書日課 詩編94編

聖書日課 詩編94編(新共同訳 旧約pp.932-933)

 第94編は、主に逆らい、弱者を苦しめ、虐殺する残虐で「傲慢」な者への「報復」を願う詩である。いわゆる〈呪いの詩編〉の一つと言ってよいだろう。

「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。主よ、彼らはあなたの民を砕き/あなたの嗣業を苦しめています。やもめや寄留の民を殺し/みなしごを虐殺します。そして、彼らは言います/『主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない』と」(1~7節)。

「信仰者が報復を願い呪うなんて信じられない!」と或る方は言うかも知れない。しかし、明らかな悪や極悪非道な行為に対して「報復」と裁きを願うのは、必ずしも不信仰とは言えない。

 頭ごなしに否定するのは簡単である。しかし、本気で主なる神を信じて生きようとすれば、この罪の世の現実に対し、怒りや葛藤や悲しみを覚えるのは当然のことではないだろうか。目の前の悪を見て、何の怒りも葛藤も湧かないという方が寧ろ問題かも知れない。

 しかし、ここで大切なのは、自ら裁いたり報復するのではなく、あくまでも主なる神に裁きと「報復」を願い求めて委ねることである。それは義なる神への確かな信仰と信頼に基づく行為と言える。この詩の作者もこう告白している。

「いかに幸いなことでしょう/主よ、あなたに諭され/あなたの律法を教えていただく人は。その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。主は御自分の民を決しておろそかになさらず/御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。正しい裁きは再び確立し/心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう」(12~15節)。

 これは、主なる神への信仰以外の何物でもない。このように、信仰には主なる神を見上げて静かに待つべき時がある。その時、私達はこのように告白することが出来るのではないか。

「『足がよろめく』とわたしが言ったとき/主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました」(18~19節)。

祈り
 天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな憐れみの中、赦され、御前にあることを心から感謝致します。

 主よ、あなたの御言葉、聖書の言葉は不思議な力、平安の源です。私達は何と幸いなことでしょう。今、普段の生活の中で、あなたの御言葉を聞きながら生きることが出来るのは、私達にとって大きな恵みです。

 主よ、あなたの御言葉をもっと心に蓄えさせて下さい。聖書の言葉を通して、あなたの御声を聞くことの喜びを私達の内にもっと溢れさせて下さい。

 やがて必ずやって来る災いの日に、あなたをほめたたえ、感謝しながらそれを潜り抜けることが出来るよう、毎日、あなたとの親しい関係を深めていくことが出来ますように。

 今日もあなたの子供達の上に、溢れる恵みを注ぎ、守り支えて下さい。あなたの御言葉に耳を傾けながら祈り、生きることの絶大な祝福を知ることが出来ますように。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 詩編93編

聖書日課 詩編93編(新共同訳 旧約pp.931-932)

 第93編は、僅か5節しかない短い詩だが、その内容は、非常に力強く壮大なスケールを持っている。

「主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り」(1~5節)。

 はじめに「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」と宣言されている。先行きの見えない時代に生きる私達にとって、この世界が「固く据えられ、決して揺らぐことはない」ものであることを知るのは、希望であり救いではないか。政治も経済も生活様式も、あらゆることが変化しつつある時代を生きる私達にとっては、特にそう言えるのではないか。

 どうして世界が「揺らぐことはない」のか。それは主が「王」であられるからである。主は「とこしえの昔から」おられる方であり、その「御座はいにしえより固く据えられ」ている。その御方が「王」として、「力を衣とし」「身に帯び」ておられるので、決して揺らぐことはない。

 だからと言って、世界が全く安全で、無風状態であるわけではない。この世界には、依然として「潮」「打ち寄せる響きをあげ」「大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波」が存在する。

 しかし、主なる神は「さらに力強く、高くいます主」である。だから、私達は主なる神に信頼し、安心をいただくことが出来る。

「主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り」

〈不確実性の時代〉と言われる世界を生きる私達にとって、「これは確かだ」と言えるものを持つことの意味と力は計り知れない。あなたは、この確かな主なる神を、人生の土台、中心、源として受け入れておられるだろうか?

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聖書日課 詩編92編

聖書日課 詩編92編(新共同訳 旧約p.931)

 第92編は、主なる神に従う者の喜びが伸びやかに歌われている詩である。

「【賛歌。歌。安息日に。】いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い/朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは/十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。主よ、御業はいかに大きく/御計らいはいかに深いことでしょう」(1~6節)。

「いかに楽しいことでしょう」と、作者は、主をほめたたえ、主に感謝を献げる礼拝の喜びを歌っている。また、「朝ごとに」主なる神の「慈しみを」「夜ごとに」主なる神の「まことを述べ伝えること」の素晴らしさを歌っている。主なる神が彼らのために「御業」を行って下さったからである。その御業とは、「神に逆らう者」「滅ぼされ」たことである。

「愚かな者はそれを知ることなく/無知な者はそれを悟ろうとしません。神に逆らう者が野の草のように茂り/悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても/永遠に滅ぼされてしまいます。主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。主よ、あなたに敵対する者は、必ず/あなたに敵対する者は、必ず滅び/悪を行う者は皆、散らされて行きます」(7~10節)。

 このように、主なる神に「敵対する者は」「必ず」滅びることが強調されている。そして、主なる神に従う者の繁栄が再び述べられている。

「神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります」(13~14節)。

 そして、

「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし/述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と」(15~16節)。

「若い頃はそうだったなぁ」などという思い出ではなく、老いてなお「いきいきと」主をほめたたえ、主を述べ伝える喜びに満ちて生きる、そのような人生をあなたも生きてみませんか。

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聖書日課 詩編91編

聖書日課 詩編91編(新共同訳 旧約pp.930-931)

 第91編は、説明を加えるよりも、ゆっくりと、何度でも、心に染み入るまで繰り返し読んで、味わおう。そして、主なる神に信頼し、「依り頼む」者を、主なる神がどんなに大切に守り、導き、助けて下さるかを心に深く覚えよう。

「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ/主に申し上げよ/『わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる/仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも/昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も/真昼に襲う病魔も/あなたの傍らに一千の人/あなたの右に一万の人が倒れるときすら/あなたを襲うことはない。あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。『彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう』」(1~16節)。

 私達の人生には、何と多くの恐れがあることだろう。敵の攻撃、「災難」「病魔」…、様々な「苦難」が私達を苦しめ、悩まし、弱らせる。

 しかし、主なる神は、私達に代わって敵に「報い」、私達のために、「御使いに命じて」「道のどこにおいても」私達を「守る」ようにして下さる。その主なる神に全幅の信頼を置いて従う時、私達はあらゆる恐れに打ち勝って生きることが出来る。

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聖書日課 詩編90編

聖書日課 詩編90編(新共同訳 旧約pp.929-930)

 第90編は〈無常〉が主題の詩である。仏教の無常観と一脈通じるところがあるが、明らかに違うのは、無常をもたらした原因が明確に語られていることである。

「あなたは人を塵に返し/『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます」(3~6節)。

「あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます」(8~9節)。

 この世が〈無常〉の世界となり、人が死ぬべき存在となったのは、「罪」が原因であり、人の「罪」に対する主なる神の「御怒り」の故であると聖書ははっきり教えている。

 人が皆死ぬべき存在であることは誰もが知っているだろう。しかし、死と向き合い、どのように死を受けとめるかを真剣に考え、祈り、探求する人は、少ないのではないか。「生きているうちが花」と、私達は今を生きることで頭が一杯で、死と向き合う余裕も、勇気も、謙遜さもなくしてしまっているのではないか。

 しかし、真に〈いかに生きるか〉を問うならば、〈死をどう受けとめるか〉という問いにどうしてもぶつからざるを得ない。それ故、この詩の作者も、こう祈っている。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(12節)。

 人生には終わりがあることを覚え、「生涯の日を正しく数える」こと、それが「知恵ある心」であると言われている。それは、罪の故に無常となった人生をもう一度確かなものにして下さる主なる神を畏れ、敬い、信頼する心を得ることである。

「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」(13~14節)。

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聖書日課 詩編89編

聖書日課 詩編89編(新共同訳 旧約pp.926-929)

 第89編は、とても長い詩である。内容的には、前半で主なる神によるダビデの選びと彼への契約が語られ、後半は、契約に違反した民の捕囚の苦しみと回復への嘆願の祈りとなっている。

「しかし、彼の子らがわたしの教えを捨て/わたしの裁きによって歩まず/わたしの掟を破り/わたしの戒めを守らないならば/彼らの背きに対しては杖を/悪に対しては疫病を罰として下す。それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず/わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず/わたしの唇から出た言葉を変えることはない。聖なるわたし自身にかけて/わたしはひとつのことを誓った/ダビデを裏切ることは決してない、と。彼の子孫はとこしえに続き/彼の王座はわたしの前に太陽のように/雲の彼方の確かな証しである月のように/とこしえに立つであろう」(31~38節)。

 もし民が契約に違反した場合には「罰」が下される。それでも主なる神は、「慈しみを」「取り去らず」ダビデを裏切ることは決してない」と言われた。主なる神は決して「真実をむなしくすることはない」御方だからである。

 人間は真実を曲げることがある。口から出た言葉を変え、契約を破るのである。しかし、主なる神の約束は、決して破られることはない。それは主なる神が「真実」そのものの御方だからである。信仰とは、この主なる神の「真実」にどこまでも期待し、信頼を置くことである。たとえ罪に陥っても、何度でも悔い改めて、再び主なる神の「真実」に依り頼み、赦しと力をいただくことである。

 47節以降で、作者は、長引く苦難の中でこう祈っている。

「いつまで、主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(47節)。

「主よ、真実をもってダビデに誓われた/あなたの始めからの慈しみは/どこに行ってしまったのでしょうか」(50節)。

 これは決して、不信仰故の疑いとか投げやりな呟きではない。苦しみの中で、どこまでも主なる神に期待し、主なる神の「真実」に信頼しようとする真実な叫びであり、いじけず、腐らず、諦めず、真実な神と向き合う信仰者の祈りである。詩編は、主なる神への真実な信仰に生きた人々の祈りに溢れた書物である。私達は、この書から、祈ることを学び続けることが出来る。

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聖書日課 詩編88編

聖書日課 詩編88編(新共同訳 旧約pp.924-926)

 詩編には、苦しみの中からの叫びと祈りが沢山出てくるが、その多くは、最後は信仰による確信と賛美をもって終わっている。ところが、この第88編は、暗いまま、苦しいままで終わっている。

「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。あなたの憤りがわたしを圧倒し/あなたを恐れてわたしは滅びます。それは大水のように/絶え間なくわたしの周りに渦巻き/いっせいに襲いかかります。愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」(14~19節)。

「何と不信仰な!」と怒ってみても、何の助けにも励ましにもならない。いや、寧ろ「暗闇だけ」で終わっているからこそ、詩編の〈詩編らしさ〉があるのではないか。

 信仰者がいつも確信と賛美に溢れているかと言えば、残念ながらそうではない。主なる神を信じていても、人生には様々な苦しみがある。それどころか、信仰者故の苦しみもある。だから、苦しむことは、決して不信仰ではない。主なる神は苦しむ人を顧みて下さる。

「わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人」(イザヤ書66章2節)。

 苦しみに終わる詩は、現実の苦しみの中にある人にとって、慰めと力になる。問題が解決したという慰めではない。問題は相変わらずあるけれども、自分に先立って、自分以上に苦しんだ人が、自分の傍にいてくれることで、私達は孤独でなくなる。私達には同伴者がいてくれることが分かる。

 私達のために苦しみを受けられたイエス・キリストが、今永遠の同伴者として、私達と共にいて下さる。だから、苦しみの中にいる自分を恥じたり、落ち込むことはない。あなたは決して孤独ではない。

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