ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記32章

聖書日課 ヨブ記32章(新共同訳 旧約pp.817-818)

 ヨブが自分の考えを語り尽くすと、最早「三人」の友人達は、それに「答え」ようとしなかった。彼らの考えの前提には決定的な違いがあり、彼らの議論には、全く噛み合うところがなかったからである。

「ここで、この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分は正しいと確信していたからである」(1節)。

 ところが、ここでもう一人の人物「エリフ」が突然語り出した。エリフはヨブと同じユダヤ人で、ヨブと近しい関係にあった人物であろうと言われている。エリフは、ヨブと3人の友人達よりも年が若かったため、これまで言葉を「控えて」彼らの話にじっと耳を傾けていた。しかし、彼らの議論が決裂に終わり、皆が黙ったところで、遂に沈黙を破り自分の考えを語り出した。

「さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。また、ヨブの三人の友人が、ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせなかったので、彼らに対しても怒った。彼らが皆、年長だったので、エリフはヨブに話しかけるのを控えていたが、この三人の口から何の反論も出ないのを見たので怒ったのである」(2~5節)。

 エリフは「ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張する」ことに怒りを感じていた。ヨブは、自分の問いかけに答えて下さらない主なる神を非難してまで、自分の身の潔白を主張した。しかし、エリフは、冷静な目をもって、それはヨブの行き過ぎた言動であることを見抜いていた。

 また彼は、ヨブの友人達に対しても怒りを覚えていました。ヨブの3人の友人達が「ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせなかった」からである。

 しかし、それは、エリフがヨブの友人達と同じ因果応報の考えを持っていたということではない。エリフは、「ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張」したことにヨブの罪を見ていたのであり、ヨブの苦難をヨブの罪のせいにしたのではなかった。つまり、エリフは、ヨブともヨブの友人達とも違った立場から、彼らの議論を聞いていたのである(14節)。

 人の意見を聞くにしても、自分の意見を述べるにしても、それぞれがどういう立場に立っているかをきちんと判断するのは大切なことである。しかし、立場が違うからといって、怒っていいわけではない。立場が違っても、相手を尊重し愛することは可能である。その点で、エリフにも限界があった。何故なら、怒りによっては決して和解をもたらすことは出来ないからである。

「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(ヤコブの手紙1章19~21節)。

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聖書日課 ヨブ記31章

聖書日課 ヨブ記31章(新共同訳 旧約pp.814-816)

 31章は、ヨブの最終弁論の締め括りの章である。これまでヨブは、29章で過去の繁栄と祝福を語り、30章で現在の苦難を語った。そして本章で、自分の身の潔白を確信をもって主の前に主張している。

 ヨブは、姦淫の罪を犯したことはなく(7~12節)、「奴隷たち」「やもめ」「みなしご」のような社会的弱者を軽んじたこともなかった(13~23節)。また、金銀に頼ったり(24~25節)、「太陽」「月」を拝んだりしたこともなく(26~28節)、更には敵の「不幸を喜」んだり(29節)、人に「呪いをかけ」るようなこともしたことはなかった(30節)。それどころか常に雇い人に与え(31節)、「いつも旅人」をもてなした(32節)。

 このように、ヨブは主の僕として正しく生き、正しく行ってきた。しかし、そのヨブは今、苦難のどん底に陥れられていた。それは、ヨブにとって、どう考えても謂れのない苦難であった。

 何故主の僕として正しく生きて来た自分がこのような苦しみを受けるのか? そして、何故主なる神はこれらのことについて沈黙しておられるのか?

 ヨブは、どうしてもその理由を主なる神から聞きたかった。そして、その理由を一向に教えて下さらない主なる神と「対決」しようとさえしていた。

「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状を/わたしはしかと肩に担い/冠のようにして頭に結び付けよう。わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し/君主のように彼と対決しよう」(35~37節)。

 実は、ここにヨブの問題があった。ヨブは自分の身の潔白を主張する余り、自分を主なる神と同等に論じ合える者としてしまっていたからである。確かにヨブは、主に信頼される僕として、主なる神と親しい交わりを持っていた。主なる神はヨブを信頼し、ヨブも主なる神を信頼していた。

 しかし、だからと言って、人間が主なる神の御心の全てを知ることはない。私達が主なる神について知っていることは、主なる神のごく一部分でしかない。だから、たとえ理解出来ないことがあるからと言って、主なる神を訴えたり、主なる神と同等に論じ合おうとするのは、やはり慎むべきことである。

 勿論、ヨブの苦しみの深さを考えれば、そうなっても仕方がないように思う。それでもやはり、人はどこまでも主なる神の御前にひれ伏し、仕える立場から離れてはならない。

「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう」(詩編22編30~32節)。

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聖書日課 ヨブ記30章

聖書日課 ヨブ記30章(新共同訳 旧約pp.812-814)

 主の僕ヨブは、かつて大いなる繁栄と人々の尊敬の中にあった。しかし、今や人々の嘲りと軽蔑の対象となってしまった。

「だが今は、わたしより若い者らが/わたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすら/わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず/何の気力も残っていないような者らだった」(1~2節)。

 これはヨブの嘆きの言葉である。以前は、高い身分の人々からも敬われていたヨブが、今では、世間から除け者にされているような人々にさえも笑い者とされている。つまり、世の人々が皆ヨブを「嘲笑」い、忌み嫌うようになってしまったというのである。

 しかし、ヨブは決して自棄になっていたわけではない。深く嘆きつつも、それでも主なる神に向かってこう叫んでいる。

「神よ/わたしはあなたに向かって叫んでいるのに/あなたはお答えにならない。御前に立っているのに/あなたは御覧にならない。あなたは冷酷になり/御手の力をもってわたしに怒りを表される。わたしを吹き上げ、風に乗せ/風のうなりの中でほんろうなさる」(20~22節)。

「わたしの胸は沸き返り/静まろうとしない。苦しみの日々がわたしに襲いかかっている。光を見ることなく、嘆きつつ歩き/人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ」(27~28節)。

 祈っても、「叫んで」も、一向に「答え」て下さらない主なる神に向かって、ヨブはそれでも諦めることなく、その思いの丈を必死にぶつけた。或る意味で、これは究極の信仰の姿と言えるかも知れない。詩編の中にも、これとよく似た表現が多く見られるが、このような信仰の表現もあることを、私達は知っておきたい。

「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」(ヤコブの手紙5章10~11節)。

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聖書日課 ヨブ記29章

聖書日課 ヨブ記29章(新共同訳 旧約pp.811-812)

 29章から31章にかけて、ヨブの嘆きの言葉が再び語られる。しかし、この嘆きの言葉は、単なる愚痴や独り言ではなく、主なる神に向けられた言葉である。それは、29章で苦難を受ける前の幸いな日々が回顧され、30章で現在の悲惨な状況が語られ、31章で自分の身の潔白が改めて主張されていることからも分かる。

「ヨブは言葉をついで主張した。どうか、過ぎた年月を返してくれ/神に守られていたあの日々を。あのころ、神はわたしの頭上に/灯を輝かせ/その光に導かれて/わたしは暗黒の中を歩いた。神との親しい交わりがわたしの家にあり/わたしは繁栄の日々を送っていた。あのころ、全能者はわたしと共におられ/わたしの子らはわたしの周りにいた」(1~5節)。

 かつてヨブは、「神に守られ」、主なる神の「光に導かれ」「神との親しい交わり」があり、主なる神が「共におられ」る幸福の中にあった。ヨブにとって幸福は、豊かな財産や社会的地位ではなく、主なる神と交わり、主なる神と共に歩み、主なる神の光の中に守られていることにあった。それは恵みによって主なる神の僕とされた者の幸いだった。

 また、ヨブは、世の人々に尊敬される人物であった(7~11節)。勿論、それは金や地位に物を言わせて勝ち取った「敬意」などではない(8節)。「身寄りのない子ら」「貧しい人々」「死にゆく人」「やもめ」「見えない人」「歩けない人」などに親身に仕える生き方を通して受けた真実な尊敬の心だった(12~13節、15~17節)。主なる神がそのような者に目を留めて下さる御方であるように、主の僕であるヨブも、社会の中で忘れ去られている人々に目を留め、手を差し伸べた。それ故、ヨブは信じていた。

「わたしは家族に囲まれて死ぬ。人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう。わたしは水際に根を張る木/枝には夜露を宿すだろう。わたしの誉れは常に新しく/わたしの弓はわたしの手にあって若返る」(18~20節)。

 それは恵み深い主なる神への信仰による確信だった。

 人々もまた、そのようなヨブの言葉を「待ち望み」、彼の言葉によって潤され(21~22節)、その言葉によって慰めと導きをもらい、彼の「笑顔」によって励ましを受けた(25節)。ヨブは「王のような人物」として人々から敬われ、信頼されていた(25節)。それは、主なる神が「わたしの僕」と呼ばれた主の僕としての姿そのものであった(1章8節)。主の僕として生きることは、何と素晴らしいことだろう!

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聖書日課 ヨブ記28章

聖書日課 ヨブ記28章(新共同訳 旧約pp.810-811)

 28章は〈知恵の賛歌〉と呼ばれ、主なる神の「知恵」について記されている。これまでのヨブの激しい論調とは違い、「知恵」とは何か、「知恵」はどこから得られるのかということが落ち着いて丁寧に述べられている。

 まず1~11節で、人間は金銀宝石を必死に探し求めるものであることが述べられている。人は自分にとって「価値あるものを見落とすことはない」(10節)。

 では、「知恵」「分別」についてはどうだろうか。「知恵」「分別」はどこに見出されるのだろうか。ヨブは言う。

「では、知恵はどこに見いだされるのか/分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない」(12~13節)。

「知恵」「分別」を得ることは、金銀宝石を手に入れることよりも遥かに難しいというのである。「知恵は純金によっても買えず、銀幾らと価を定めることもできない」貴重なものである(15節)。

 では、「知恵」「分別」はどこから得ることが出来るのだろうか。ヨブは言う。

「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」(23節)。

 何故なら、主なる神は、この世界を造り、「地の果てまで」の全てをご存知であり(24節)、また全てを動かしておられる方だからである。

 それ故、人が「知恵」「分別」を得るのは、全てを支配しておられる主なる神からであって、「知恵」は、主なる神との交わりの中でこそ得られるものである。即ち、人間にとって「知恵」とは、その源である「主を畏れ敬うこと」であり、「分別」とは、「主を畏れ敬」って、「悪を遠ざけること」である(28節)。

 一方、ヨブの友人達にとっての「知恵」は、人生における繁栄と富を得るためのものでしかなかった。ここにも彼らの議論が全く嚙み合わない原因の一端があった。

「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め」(箴言9章10節)。

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聖書日課 ヨブ記27章

聖書日課 ヨブ記27章(新共同訳 旧約pp.808-809)

 ヨブと3人の友人達の議論は終わった。友人達は皆、口をつぐんだ。そこで、ヨブは、議論を締め括るように、最後にもう一度自分の考えを述べた。27~31章はヨブの最後の弁論である。

「ヨブは更に言葉をついで主張した。わたしの権利を取り上げる神にかけて/わたしの魂を苦しめる全能者にかけて/わたしは誓う。神の息吹がまだわたしの鼻にあり/わたしの息がまだ残っているかぎり/この唇は決して不正を語らず/この舌は決して欺きを言わない、と。断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない」(1~6節)。

 この中で、ヨブは、あくまでも「自分の正しさに固執し」、身の「潔白を主張」している。それは、友人達との議論を通してますます強くなっていった確信だった。そしてそれは、ヨブの受けた苦難に関して言えば、確かに正しいことだった。

 しかし、それと同時に、ヨブの言葉には主なる神に対する不満と非難の思いが明らかに表されている。「わたしの権利を取り上げる神にかけて/わたしの魂を苦しめる全能者にかけて/わたしは誓う」という言葉には、どこまでも主なる神の権威と誠実の上に信頼を置く信仰と共に、自分の受けた苦難について主なる神が全く沈黙しておられることに対する不満と非難の思いが見られる。ここに信仰者ヨブの苦しみの本質があった。

 更に、ヨブは、友人達にも非難の言葉を語った(7~23節)。いや、それは単なる非難ではなく、警告の言葉とも言えるかも知れない。ヨブとの再三にわたる議論にもかかわらず、ヨブの信仰とその苦しみの意味を全く理解しようとしない友人達に、ヨブは「神を無視する者にどんな望みがあろうか」と警告した(8節)。

 ところが、その警告の内容は、「神に逆らう者」の上に臨む災いという、これまで友人達がヨブに語ってきた内容と同じものだった(13~23節)。それは、真の神との交わりを知らない友人達こそ、自ら語った災いを受けることになるという、ヨブの確信による警告の言葉であった。

 苦難と、信仰の揺らぎと、確信…ここには確かに重要な繋がりがある。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマの信徒への手紙5章3~4節)。

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聖書日課 ヨブ記26章

聖書日課 ヨブ記26章(新共同訳 旧約p.808)

 26章は、シュア人ビルダドの言葉に対するヨブの「答え」である(1節)。ビルダドの言葉が短かったためか、ヨブの「答え」もさほど長くない。しかし、その内容は、ビルダドに対する痛烈な反論となっている。

 まず、2~4節で、ヨブは立て続けに3つの皮肉とも言える疑問をぶつけている。2節から1節ずつ見ていこう。

「あなた自身はどんな助けを力のない者に与え/どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか」(2節)。

 主なる神を知っているというあなたの言葉は、傷つき弱り果てている者を、より一層苦しめるばかりで、何の「助け」にも「救い」にもなっていない。

「どんな忠告を知恵のない者に与え/どんな策を多くの人に授けたというのか」(3節)。

 主なる神の御心が分からなくて苦しんでいる者に、何の有益な「忠告」「与え」なかったではないか。あなたには助けになる「知恵」「策」もない。そして極めつけは次の言葉である。

「誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか」(4節)。

 結局、あなたの言葉は、主なる神からいただいたものでも、神の霊によるものでもなく、人間の知恵と考えに過ぎない。だから、真に主なる神を知りたいと願う者にとって何の助けにもならない。その上で、ヨブは言う。

「神についてわたしたちの聞きえることは/なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう」(14節)。

 ヨブが心底から求めているのは、神に関する人間の哲学や知識ではなく、主なる神の言葉であり、主なる神御自身である。何故なら、それ以外に本当の慰めも救いも解決も有り得ないからである。これは、真の信仰者の深く激しい魂の飢え渇きの姿である。ヨブの苦しみの深さが、それを求めさせていた。

「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。/神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか」(詩編42編2~3節)。

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聖書日課 ヨブ記25章

聖書日課 ヨブ記25章(新共同訳 旧約pp.807-808)

 ヨブの鋭い論証に対し、シュア人ビルダドが口を開いた。しかし、その言葉は短く、あっという間に終わっている。25章はたった6節しかない!

「シュア人ビルダドは答えた。恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ/天の最も高いところに平和を打ち立てられる。まことにその軍勢は数限りなく/その光はすべての人の上に昇る。どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。月すらも神の前では輝かず/星も神の目には清らかではない。まして人間は蛆虫/人の子は虫けらにすぎない」(1~6節)。

 ビルダドは、主なる神の絶対的な「支配」と、人間の世界とは掛け離れた所にある「天」における「平和」を述べ、それと比較しての人間の小ささと汚れを強調するばかりであった。彼の言葉は到底ヨブの考えへの反論と言えるようなものではなかった。

 ビルダドにとって神は、この世と隔絶した世界にいる絶対的存在であり、人間と親しく交わる方ではなかった。まして、ヨブが信じているような、弱い者に恵みを注ぎ、罪ある者を贖う神などは、思いもよらないことであった。

 このように、議論が積み重ねられるにつれて、ヨブと友人達の神についての理解には、大きな違いがあることが明白になった。彼らは皆、いつまで経っても噛み合うことのない議論に疲れを覚え始めていたに違いない。

 ビルダド自身も、自分から語りつつも、自分の考えの限界を感じていたのではないか。そのため、それ以上話すことが出来なくなってしまったのかも知れない。

 彼らには、議論を止め、口をつぐみ、主の御前に静まる時が近づいていた。

「すべて肉なる者よ。主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる」(ゼカリヤ書2章17節)。

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聖書日課 ヨブ記24章

聖書日課 ヨブ記24章(新共同訳 旧約pp.806-807)

 ヨブの言葉が続く。ここでヨブは、友人達の因果応報の原理に基づく考え方の矛盾を具体例を挙げつつ指摘している。

「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか。人は地境を移し/家畜の群れを奪って自分のものとし/みなしごのろばを連れ去り/やもめの牛を質草に取る。乏しい人々は道から押しのけられ/この地の貧しい人々は身を隠す」(1~4節)。

 まず「なぜ神を愛する者が/神の日を見ることができないのか」と疑問を投げかける。そして、この世では、正しい者や弱い者や「貧しい人々」が、「悪人」によって悩まされ苦しめられ、全く顧みられないまま死んでいく現実があることを述べている(2~12節)。

 また、世の中には、主なる神の教えに背いて、殺人、「姦淫」「盗みを働く」者が横行していることを指摘する(13~17節)。このような矛盾は、因果応報の原理では説明することが出来ない。

 更に、これに続く18~24節で、ヨブは畳みかけるように因果応報の矛盾と限界を断言している。そのために、ヨブはまず、悪人は忽ち滅びるという因果応報の原理に基づく考え方を述べている。

「暑さと乾燥が雪解け水をも消し去るように/陰府は罪人を消し去るだろう。母の胎も彼を忘れ/蛆が彼を好んで食い/彼を思い出す者もなくなる/不正な行いは木のように折れ砕ける。…権力者が力を振るい、成功したとしても/その人生は確かではない。…だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えてゆくものと共に倒され/麦の穂のように刈り取られるのだ」(19~24節)。

 これは友人達が主張する因果応報の考え方である。しかし、ヨブは断言する。

「だが、そうなってはいないのだから/誰が、わたしをうそつきと呼び/わたしの言葉をむなしいものと/断じることができようか」(25節)。

 ヨブは、自分自身に襲い掛かった苦難を通して、現実の中に確かに存在する説明することの出来ない矛盾に目が開かれた。この点で、友人達の現実認識とは決定的な違いが生じていた。

「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩編119編71節)。

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主の恵みによって

「主の恵みによって」

 私達は、どんなに上手く行っても、自分の手柄にしてはいけない。「主の恵みによって」と言わなければならない。「神に栄光を帰」することが危険を回避する最善の方法である。

「定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた」(使徒言行録12章22~23節)。

 傲慢は私達を丸裸にする。主なる神の守りを失う。「蛆」という小さなものによっても滅ぼされてしまう。裕福になっても「自分の力と手の働きで、この富を築いた」と言ってはならない。

「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(申命記8章11~18節)。

「心おごり、あなたの神、主を忘れ」「自分の力と手の働きで、この富を築いた」と言い出したら、その人には滅びが近づいている。

 私達は「全ては主なる神の恵みです」と言う癖をつけるべきである。何についても「神に栄光を帰」していれば、傲慢という罠に陥らずに済む。人に対しては堂々としている必要があるが、主なる神に対しては「私は愚か者です。知恵のない者です。全てはあなたが祝福して下さったからです。ありがとうございます」と絶えず口にすべきである。

 人間は弱いもので、物事が上手くいくと、必ず天狗になる。そして、自分では天狗になっているかどうか分からない。自分がどういう状態か、自分では分からなくなってしまわないためにも、いつも「主なる神のおかげです」と言うようにしよう。