ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

聖書日課 レビ記3章

聖書日課 レビ記3章(新共同訳 旧約p.165)

 3つ目の献げ物は「和解の献げ物」である。

「献げ物を和解の献げ物とするときは、牛であれば、雄であれ雌であれ、無傷の牛を主にささげる。奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。奉納者がこの牛を燃やして主にささげる和解の献げ物とする場合は、内臓を覆っている脂肪、内臓に付着するすべての脂肪、二つの腎臓とそれに付着する腰のあたりの脂肪、および腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉を取る」(1~4節)。

「和解の献げ物」は、唯一ささげた人も一緒に食することの出来る献げ物である(7章15節)。これが主なる神との交わりを意味するものだからである。

 主なる神と和解することは、主なる神と交わりを持つことであり、共に食することは、交わりを意味している。

 律法によって規定されている祭儀の中心は、主なる神を礼拝することにある。そして、礼拝の本質は、主なる神との交わりにある。礼拝者とは、主なる神との交わりの中に生きる者、いついかなる時でも、主なる神と共に、主なる神に従って歩む者である。

 何故主なる神は律法を与えて下さったのだろうか? それは私達を掟で縛るためではない。

 主なる神が、律法を通して、私達に求めておられることは何だろうか? それは、私達が主なる神との交わりの中に生きることである。

 そして、主なる神との交わりの中心にあるのが礼拝である。私達の礼拝は、主なる神との真実な出会いとなっているだろうか? 私達は、主なる神との交わりを、心から楽しみ喜んでいるだろうか?

 礼拝は単なる儀式ではない。それは、実質的な主なる神との交わりであり、交わりを喜び、感謝し、賛美する集いである。

 私達の礼拝が、そのような喜びと賛美に満たされたものであるように!

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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聖書日課 レビ記2章

聖書日課 レビ記2章(新共同訳 旧約p.164)

 2章には穀物の献げ物」に関する規定が記されている。

穀物の献げ物を主にささげるときは、上等の小麦粉を献げ物としなさい。奉納者がそれにオリーブ油を注ぎ、更に乳香を載せ、アロンの子らである祭司たちのもとに持って行くと、祭司の一人がその中からオリーブ油のかかった上等の小麦粉一つかみと乳香全部を取り、しるしとして祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主にささげる宥めの香りである。穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主にささげられたものの一部であるから、神聖なものである」(1~3節)。

 穀物の献げ物は、通常、1章の「焼き尽くす献げ物」に続いてささげられたと言われている。「焼き尽くす献げ物」によって、主なる神との交わり(礼拝)が回復され、その喜びと感謝の表れとして、穀物の献げ物」がささげられたと考えることが出来る。

 その意味では、私達の礼拝における献金と同じ意味を持っていると言えるかも知れない。穀物の献げ物」の一部は、「祭壇で燃や」されて、「主にささげる宥めの香り」とされ、残りは、祭司達の生活を支えるものとされたということも、献金の意味合いと共通している。

 献げ物は、人間が主なる神にささげるものである。しかし、忘れてならないのは、私達がささげる前に、主なる神が私達のためにささげて下さり、私達の必要を満たして下さったということである。このことを忘れると、或いはこのことが分からないと、献げ物は、無理強いや搾取になってしまいかねない。

 主なる神は、私達から奪い取る御方ではない。献げ物は、喜びと感謝の中から生まれるものであり、また、ささげることそのものが喜びとなるものである。

 主なる神がこんなに私を愛して下さった! 主なる神がこんな罪人を赦して下さった! 私は主なる神によってこんなにも満たされている!

 そういう自覚、そういう喜び、そういう感謝から生まれるもの、それが主なる神が願っておられる献げ物である。

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聖書日課 レビ記1章

聖書日課 レビ記1章(新共同訳 旧約p.163)

 レビ記は、敬遠されがちな書物かも知れない。「レビ記を愛読しています」という人は少ないのではないか。それは、レビ記が、創世記のような物語ではなく、いけにえや儀式に関する細かな規定が書かれている書物だからだろう。

 しかし、レビ記は、一度意味が分かり始めると、俄然興味が湧いてくる書物でもある。いけにえや儀式は、私達の救いに関する問題であり、主イエス・キリストと十字架を理解する上で重要なものだからである。旧約時代の律法が、新約聖書の教え、それも重要な教理と深い関わりがあることが分かると、聖書の奥深さと、主なる神のご計画の大きさに驚嘆を覚える。

 レビ記の冒頭の1章~7章には、幕屋で主なる神に献げるいけにえについての規定が記されている。

「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである」(1~9節)。

 いけにえと聞くと、何か残酷なイメージを持つ人がいるのではないか。或いは、いけにえにされる動物が可哀想だと思う人もいるかも知れない。

 しかし、これは他人事ではない。可哀想だと思うのは、それが自分自身の罪のためであることに気付いていないからではないか。私達が罪を赦され、贖われるためには、身代わりの血が流されなければならない。つまり、いけにえが殺され、血が流されるのは、私達の罪のためである。動物を「屠」り、「血を」「注ぎ」「焼き尽くす」ことは、確かに残酷な行為である。しかし、その残酷な行為を引き起こしたのは、取りも直さず私達自身である。そのことが分かると、私達は、いけにえを恐れと痛みをもって受けとめざるを得ない。まして、本当のいけにえが主イエス・キリストご自身であることを知る時、私達は、主の御前にひれ伏し、感謝と賛美の思いで一杯にさせられるのでないか。そのような意味を心に覚えつつ、レビ記を読み進めていきたい。

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バプテスマ準備クラス 2022年1月9日

バプテスマ準備クラス 2022年1月9日
人間

「人間は神の像にかたどり創造されましたが、神への不従順によって罪に落ちました。故に私たちは聖なる神の怒りと審判の下にあって、神の律法により罪人として定められ死に値する者であります」

 聖書は、救いに私達が与るための最初のステップとして、自分の惨めさを知ることを教えている。これまでに自分が惨めだと感じたことのない人は、恐らく一人もいないだろう。だから、人間は惨めな存在であると言われた時、それに同意する人は多いかも知れない。
 だが、聖書によれば、私達は、主なる神が与えて下さった「律法」によって、初めて自分の本当の惨めさを認めることは出来る。何故なら、私達の惨めさは、個々の具体的な経験というよりも、私達の存在そのものに関わる惨めさだからである。
 聖書が一貫して述べているのは、私達人間は、主なる神によって「神の像にかたどり」善いものとして「創造され」たにもかかわらず、主なる神から離れ、主なる神を忘れ、主なる神に背き、「神への不従順によって罪に落ち」た存在だということである。聖書は、主なる神との関係において、人間の惨めさを捉えている。
 人間の罪の現実は、「神の律法」を守ることが出来ないという無力さとして現れてくる。では、「律法」とは具体的にどのような教えか。「律法」の中核は〈十戒〉である。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならないあなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない姦淫してはならない盗んではならない隣人に関して偽証してはならない隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20章2~17節)

 旧約聖書の中には、沢山の戒めと法と掟が記されている。その根本と言えるのが〈十戒〉である。全ての「律法」は〈十戒〉の具体的な適用と言っても過言ではない。
 私達は守るべき教えとして「律法」を与えられている。にもかかわらず、その要求を全て満たすことが出来ない。その現実を聖書は「罪」と呼んでいる。

「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」(ローマの信徒への手紙7章7~12節)。

 また、聖書の言う「罪」は、その元の言葉の背景に遡って、〈的を外すこと〉としてしばしば説明されてきた。主なる神を愛するという方向性をもって放たれた矢が、主なる神以外の偶像へと逸れてしまう。隣人を愛するという方向性をもって放たれた矢が、隣人にまで届かず、途中で墜ちてしまう。そればかりか、主なる神と隣人を憎んでしまう。それこそ、「罪」によって支配されている人間の姿である。「律法」に照らされる時、主なる神から離れ、主なる神のことを忘れてしまっている私達の姿が顕わになる。
 このように言われると、反発したくなる人がいるかも知れない。確かに、自分は「律法」が求めることを全て守れているわけではない。主なる神を愛し、隣人を愛していると胸を張って主張することも出来ない。それでも、「聖なる神の怒りと審判の下にあ」り、「死に値する者」であるというのは言い過ぎではないか、と。
 だが、「律法」によって、私達の「罪」の現実が容赦なく抉り出されるからこそ、そこで捉えられている「罪」の赦しと救いもまた、徹底して完全なものであると言える。使徒パウロは、私達の惨めさを映し出す「律法」を、イエス・キリストとの関連において捉えている。

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ローマの信徒への手紙3章20~22節)。

「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです」(ガラテヤの信徒への手紙3章21~24節)。

「律法」は、私達の「罪」の現実を抉り出すと共に、私達を「キリストのもとへ導」き、罪から救い出し、真の慰めを与え、新しい歩みへと促す力を持っている。イエス・キリストの贖いの故に、私達は惨めさの中から救い出される。そして、イエス・キリストのものとされる。この希望にしっかりと捉えられているからこそ、私達は絶望することなく、「罪」の惨めさを見つめることが出来る。
「律法」には三つの働きがあると言われる。第一は、これまで見てきたように、神の義(正しさ)を明らかに示すことによって、人間の不義と「罪」を暴くことである。第二に、律法を与えられることによって人間の「罪」が抑制され、社会に秩序がもたらされることである。しかし、代々の教会が特に大切に覚えてきたのは、律法の第三の働きである。律法は、信仰者を励まし、絶えず服従と感謝の生活へと導く。
 私達は何者であり、どのように生きるべきか。主なる神の言葉は、その真実を私達に教えている。主なる神の言葉を通して、私達は、自らの惨めさを知り、そして真の救い主であるイエス・キリストと出会うことが出来る。御言葉に正しく聞くことの大切さを改めて深く受けとめながら、主にあって生きることの恵みと幸いを味わい直したい。

聖書日課 出エジプト記40章

聖書日課 出エジプト記40章(新共同訳 旧約pp.161-162)

 出エジプト記最後の章は、臨在の幕屋の完成によって終わる。イスラエルの人々は、荒れ野の厳しい状況にもかかわらず、「男も女も、聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない」と言われるほどに献げた(36章6節)。また、「主がモーセに命じられたとおり」であるように細心の注意を払いながら準備してきた(39章32節、42~43節)。そのようにして幕屋が遂に完成した!

「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」(34~38節)。

 幕屋が完成すると、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」。そして、その光景が余りにも眩しかったためか、或いは、恐れを覚えるほどの聖さのためか、モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった」

 私は、このような光景に強く惹かれる。主の臨在に包まれ、「主の栄光」が満ち溢れる光景に深く惹かれる。私達の礼拝が、そのようであることを願う。また、全てのキリスト者が、恐れを覚えるほどの主なる神の臨在と栄光に包まれることを願う。

 私達は、確かに、主なる神について知っているかも知れない。しかし、主なる神の恐いほどの臨在と栄光をどれほど強く求めているだろうか? 私達は、確かに、主なる神を信じているかも知れない。しかし、主なる神の臨在と栄光の御前にどれほどひれ伏し祈っているだろうか?

 知っているつもり、信じているつもりにならないよう、注意したい。

「旅路にあるときはいつも」イスラエルの民は主なる神の臨在の幕屋に目を向けていた。「昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えた」(38節)。そして、「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発し」「雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで」、そこに留まった(36~37節)。彼らは、日々主に目を向け、日々主の導きに従って歩んだ。ここに神の民の姿が確かに表れている。

 全ての教会が、全てのキリスト者が、全ての礼拝が、主なる神の臨在に包まれ、主なる神の栄光の前にひれ伏すように! また、いつも主に目を向け、主の導きに従って、信仰の旅路を歩むように!

西原新生バプテスト教会
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2022年1月9日(日) 週報

2022年1月9日(日) 降誕節第3主日

○礼拝プログラム
招詞 ヨシュア記1章5節
讃美 62(主イエスのみいつと みめぐみとを)
交読 詩編85編1~14節(新共同訳 旧約pp.922-923)
主の祈り
聖書拝読 フィリピの信徒への手紙4章4~5節(新共同訳 新約p.366)
祈り 司式者
讃美 第二編1(こころを高くあげよう)
宣教 「主にあって喜びなさい」柏本隆宏協力牧師
讃美 339(君なるイエスよ、けがれし我を)
聖餐式
祈り
奉献
頌栄 546(聖なるかな、せいなるかな)
祝祷 柏本隆宏協力牧師
報告

○報告
1. 沖縄県内で新型コロナウィルスの感染が再び拡大しています。礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。その一方で、希望される方にはzoomによる同時中継も行います。パソコン、タブレットスマートフォンのいずれかでzoomをインストールの上、10:30になりましたらご入室下さい。IDとパスワードにつきましては、教会のメールアドレス(下記)宛てに参加希望の申し出をして下さった方に対し、ご案内を差し上げます。

2. 今年一年間の保護と祝福を祈願して聖餐式が行われます。今年も十字架の恵みの内に過ごしましょう。

3. 礼拝後、クリスマスの装飾の片付けと会堂の清掃を行います。皆で心を合わせて、教会の内外を綺麗に致しましょう。

4. 11月よりバプテスマ準備クラスを開始しました。バプテスマに向けての準備の一つ一つの上に、聖霊のお守りとお導きがありますようお祈り下さい。

5. ブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージを載せていますので、日々の聖書通読の一助としてご参照下さい。
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○トラクト配布について 2021年度: 2,265部(2022年1月9日時点)
教会周辺 50部
教会~小橋川公民館 道路沿い 50部
国道329号線沿い(西原シティ~内間バス停) 25部
西原東小学校周辺 150部
西原町役場周辺(西原町与那城) 95部
西原台団地 95部
県営与那原第二団地(与那原町板良敷) 50部
中城村南上原 50部
与那古浜公園周辺(与那原町東浜) 100部
西原高校周辺 350部
琉球大学病院周辺(西原町上原) 50部
琉球大学教育学部附属小学校周辺(西原町千原) 140部
首里駅周辺 215部
石嶺団地周辺(首里石嶺町) 150部
県営幸地高層住宅(西原町幸地) 50部
首里高校周辺 75部
浦添前田駅周辺 150部
経塚駅周辺 180部
儀保駅周辺 65部
市立病院前駅周辺(首里末吉町) 145部
旭橋駅周辺 25部

○聖書日課
9日(日) 出エジプト記39章
10日(月) 出エジプト記40章
11日(火) レビ記1章
12日(水) レビ記2章
13日(木) レビ記3章
14日(金) レビ記4章
15日(土) レビ記5章

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聖書日課 出エジプト記39章

聖書日課 出エジプト記39章(新共同訳 旧約pp.159-161)

 幕屋建設のための準備が完了した。

「彼らは幕屋をモーセのもとに運んで来た。すなわち、天幕とすべての祭具、壁板、留め金、横木、柱、台座、赤く染めた雄羊の毛皮の覆い、じゅごんの皮の覆い、至聖所の垂れ幕、掟の箱と棒、贖いの座、机、およびそのすべての祭具と供えのパン、純金の燭台とともし火皿、すなわち一列に並べるともしび皿、およびそのすべての祭具と灯油、金の祭壇、聖別の油、香草の香、天幕の入り口の幕、青銅の祭壇と青銅の格子、棒とそのすべての祭具、洗盤と台、庭の幔幕、その柱と台座、庭の入り口の幕、綱と杭、および臨在の幕屋で行われる幕屋の務めに必要なすべての祭具、聖所で仕えるために織った衣服、すなわち、祭司アロンのための祭服、およびその子らが祭司として仕えるための衣服を運んで来た」(33~41節)。

 膨大な数である! そして、実に大変な作業である! しかも、この時イスラエルの人々は、荒れ野にいたので、決して全てが整った状況ではなかった。それでも彼らは、自ら進んで献げ、また心から進んで奉仕した。主なる神への献げ物や奉仕は、豊かだから出来るとか、十分整えられたから出来るというものではない。貧しい中にもかかわらず献げ、困難な状況であるにもかかわらず仕えるということがある。主なる神への信仰は、状況に縛られることなく、状況を乗り越えるものである。

 そればかりではない。ここには、幕屋が「主がモーセに命じられたとおりに」造られたことが繰り返し記されている。

「幕屋、つまり臨在の幕屋の作業はすべて完了した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおり、すべてそのとおり行った」(32節)。

イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った。モーセがそのすべての仕事を見たところ、彼らは主が命じられたとおり、そのとおり行っていたので、モーセは彼らを祝福した」(42~43節)。

 幕屋の全ては、細部に至るまで、「主がモーセに命じられたとおりに」造られたことが強調されている。これは、イスラエルの人々の忠実さの表れと言うことが出来る。その一方で、聖書がこれほどまでに主なる神の命令にこだわるのは、人間の救いに関しては、主なる神の方法による以外にはないからである(使徒言行録4章3節)。「主が命じられたとおり、すべてそのとおり行」うこと、「祝福」はそこに注がれる。

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聖書日課 出エジプト記38章

聖書日課 出エジプト記38章(新共同訳 旧約pp.156-157)

 38章には、「祭壇」(1~8節)、幕屋を囲む庭の作成(9~20節)、そして幕屋の建設材料の記録(21~31節)などが記されている。その中に、青銅で造られた洗盤と台について、次のような記述がある。

「彼はアカシヤ材で焼き尽くす献げ物の祭壇を造り、縦五アンマ、横五アンマの正方形、高さは三アンマとした。その祭壇の四隅にそれぞれ角を作って、祭壇から生えているようにし、全体を青銅で覆った。また、祭壇で使われるすべての祭具、壺、十能、鉢、肉刺し、火皿などの祭具はみな青銅で作った。格子は祭壇の半ばの高さにある、張り出した棚の下の部分に付け、青銅の網目作りとした。四つの環を鋳造し、青銅の格子の四隅に付け、棒を通す所とした。彼はアカシヤ材で棒を作り、それを青銅で覆い、棒を祭壇の両側の環に差し入れて祭壇を担ぐために用いた。祭壇は板で造り、中を空洞にした。更に、青銅の洗盤と台を作ったが、それは臨在の幕屋の入り口で務めをする婦人たちの青銅の鏡で作った」(1~8節)。

 洗盤は、祭司が幕屋で奉仕をする時に手足と体を清めるためのものである。そのように主なる神が宿る幕屋の聖性の象徴でもある青銅の洗盤が、「幕屋の入り口で務めをする婦人たちの青銅の鏡」によって作られたというのである。

 即ち、彼女達は、行動をもって自分を主に献げると共に、自分の「青銅の鏡」をも主に献げた。当時鏡は、宗教的行事に使用されていたと言われている。もしそうだとすれば、彼女達は、自分が二度と偶像礼拝に陥ることがないように、道を断ったと考えることも出来る。つまり、たとえ偶像礼拝に使われたものであっても、主に献げることで、清められて主の御用に立つものとされたのである。

 私達自身は、決して完全でも清い者でもない。しかし、自分自身を主に献げる時、主は私達を受け入れ、清め、主なる神の御用に立つ者として用いて下さる。それ故、パウロは、全てのキリスト者に次のように勧めた。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマの信徒への手紙12章1節)。

 礼拝とは、自分自身を献げることであり、私達が、清められて主なる神に喜ばれ、主なる神の御用に用いられる者となることである。

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聖書日課 出エジプト記37章

聖書日課 出エジプト記37章(新共同訳 旧約pp.156-157)

 37章には、掟の箱、「贖いの座」(6~9節)、「机」(10~16節)、「燭台」(17~24節)、「香をたく祭壇」(25~28節)が造られたことが記されている。これらは聖所と至聖所に置かれたが、全てに共通する特徴は、「金」が使用されていたということである。

「ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作った。次に、四つの金環を鋳造し、箱の四隅の脚に、すなわち、箱の両側に二つずつ付けた。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通した」(1~5節)。

 金は当時から大変な貴重品だった。エジプトでは、王(ファラオ)を表すものとして使われていた。その金が、主なる神の住まいである幕屋に、しかも、最も大切な聖所と至聖所に置かれる物品に使用されたのは、当然と言えば当然のことである。荒れ野における〈主なる神の仮住まい〉とも言える幕屋の豪華さと美しさは、目を見張るものであったに違いない。

 しかし一方で、後の時代に主なる神の神殿を建造したソロモン王は、こう祈っている。

「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください」(列王記上8章27~29節)。

 人は、目に見えるものによって心を奪われる。それ故、豪華な教会堂を建てて、人々の注目を惹きつけ、伝道に役立てようと考える人さえいる。しかし、幕屋や神殿の豪華さは、人々の心を惹きつけたり、自分達の権勢を見せつけるためのものではない。主なる神の恵みと愛に満たされた人々の喜びの現れであり、その美しさは、主なる神への感謝と信頼の心の現れである。

 何よりも大切なことは、建物や見た目の豪華さではなく、主なる神の御臨在であり、主なる神が共にいて下さる平安と喜びに満たされることである。そのような教会、そのようなキリスト者であり続けたい。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス

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聖書日課 出エジプト記36章

聖書日課 出エジプト記36章(新共同訳 旧約pp.154-156)

 36章には、真に喜びに満たされた人々の姿が描かれている。それは、「必要以上の物」を献げようとする姿に表された喜びである。また、「有り余るほど」「物」が満ちていることに表された喜びである。

モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および主から心に知恵を授けられた、心に知恵のあるすべての者、すなわち、心動かされたすべての者をこの仕事に従事させるために呼び集めた。彼らは、イスラエルの人々が聖所建設の仕事を行うために携えて来たすべての献納物を、モーセから受け取ったが、人々はなおも、毎朝、随意の献げ物を彼のもとに携えて来たので、聖所のあらゆる仕事に携わる知恵のある者は皆、それぞれの仕事場を離れて来て、モーセに言った。『この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上の物を携えて来ます』。モーセが宿営に、『男も女も、聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない』との命令を伝えさせたので、民は携えて行くのをやめた。既にささげられた物は、作業全体を仕上げるのに十分で有り余るほどあった」(2~7節)。

 全ての教会が、このような喜びと祝福に溢れていたら、どんなに素晴らしいことだろう! また、全ての人の心が、他の人に「必要以上の物」を与えたいという喜びに満たされていたら、どんなに美しいことだろう!

 しかし、こういう箇所は、注意しないと、「だから、献金しましょう!」「頑張って奉仕しましょう!」「伝道しましょう!」という呼びかけになってしまう。

 勿論、献金も、奉仕も、伝道も、とても大切である。決して軽んじられてはならないものばかりである。しかし、私達は、主なる神や教会や隣人のために何かをする前に、主なる神が私達のためにどんなに大きなことをして下さったかにこそ目を向ける必要がある。そうでないと、これらは皆、主なる神の恵みによる業ではなく、人の頑張り、或いは人間の強制になってしまう危険性がある。そういう世界では、競争が生じたり、主なる神がほめたたえられるよりも、人が賞賛されてしまうということが起こってくる。いわゆる〈教会のカルト化〉は、そういうところから始まる。

 主なる神が私達のためにどんなに素晴らしいことをして下さったか。聖書の教えの中心は、そこにある。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙一4章10節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

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