聖書日課 ヨハネの黙示録21章(新共同訳 新約pp.477-479)
いよいよヨハネの黙示録のクライマックスである新天新地が実現する。1節で言われている「新しい天と新しい地」は、今存在する天と地が完成したものか、或いは全く新しい別のものであるかについては意見が分かれる。しかし、いずれにしても確かなのは、これが主なる神によって与えられる究極的な祝福の状態を示しているということである。
この時、ヨハネは、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(2節)。そして、玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(3~4節)。
「新しいエルサレム」は、9節で「小羊の妻である花嫁」と言われているように、救われた聖徒達の群れである教会を意味している。そして、そこには「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と言われている。何故そのようになるのか。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」からである。
主なる神が人と共にいて、人が主なる神と共にいる。主なる神と人が、夫と妻のように一心同体となって永遠に住まう。主なる神によって与えられる究極的な祝福の本質がここにある。確かに、その都の外観は、「その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった」と言われている(11節)。また、その大きさも、信じられないほど大きなものである(16節)。
しかし、この都の本質は、見た目の美しさや大きさではない。主なる神が人と共にいて、夫と妻、或いは親と子のような家族となって永遠に住んで下さることにある。そのことを私達は決して忘れてはならない。というのも、イエス・キリストを主と信じ、心に迎え入れた私達の内には、既に主が共にいて住んで下さっているからである。つまり、キリスト者は、この地上において「新しいエルサレム」の本質を知り、そこに生きる者とされている。神の国は既に私達の内にあるのである。勿論、この世では、罪と悪が存在し、私達を苦しめる。しかし、それらは必ず滅び去る。その日を信じ、待ち望みつつ、今日も、主と共に、御心の道をまっすぐに歩む者でありたい。
西原新生バプテスト教会
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