ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨハネによる福音書10章

聖書日課 ヨハネによる福音書10章(新共同訳 新約pp.186-188)

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)。

 これはヨハネによる福音書の中に出てくるイエス・キリストの自己啓示の一つである。「わたしは良い羊飼いである」…ここにはイエス・キリストの使命と働きについての大事な意味が込められている。

 第一に、良い羊飼いであるイエス・キリストは、羊に仕えるために来られた。偽りの羊飼いであるユダヤの指導者との根本的な違いがここにある。彼らは自分の利益や報酬のために羊を利用していたが、イエス・キリストは、人々に「仕えられるためではなく仕えるために」(マルコによる福音書10章45節)来られた。

 第二に、良い羊飼いであるイエス・キリストは、羊である私達を養い育てる。羊飼いは、羊一頭一頭の名前を知っている。彼は、群れの「先頭に立って」(4節)、羊を牧草地や水辺へと導く。こうして、良い羊飼いは、羊を様々な危険や災いから守る。しかし、偽りの羊飼いは、羊を「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする」(10節)。

 第三に、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」イエス・キリストは言われた。当時のパレスチナでは、羊飼いが羊を守るために野獣と戦って命を落とすことも実際にあったと言われている。自分の身を挺して羊を守るのがユダヤの羊飼いの姿である。イエス・キリストも、私達を救うために、御自分の命を十字架の上で献げて下さった。ここに真の良い羊飼いとしてのイエス・キリストの姿がある。それに対し、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人」は、「羊のことを心にかけていない」ので、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」(12~13節)。ここにも、イエス・キリストユダヤの指導者の違いがはっきりと示されている。

 そして、第四に、良い羊飼いであるイエス・キリストは、一つの群れをつくるイエス・キリストは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(16節)と言われた。これはユダヤ人と異邦人が、イエス・キリストの御声を聞いて一つの群れ(教会)となることを意味している。イエス・キリストは武力や権力をもって群れを一つとするのではなく、御自分の命を差し出すことによって羊を生み育て、一つの群れをつくられた。

 イエス・キリストを信じる私達は、良い羊飼いであるイエス・キリストに守られ、養われ、豊かな命を受ける者とされた。このことを心から喜び感謝したい。

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」(3~5節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町字内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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聖書日課 ヨハネによる福音書9章

聖書日課 ヨハネによる福音書9章(新共同訳 新約pp.184-186)

 通りすがりに見かけた盲人について(1節)、イエス・キリストの弟子達が「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねた(2節)。それは至って冷静で真面目な信仰上の質問だった。しかし、それは温かみを感じさせる言葉ではない。どうしてだろうか。

 それは、弟子達の質問には真理を追究する冷徹な目はあっても、その人を思いやる心が存在していなかったことに原因があるのではないか。つまり、弟子達にとって、この盲人は、あくまでも通りすがりの見知らぬ他人でしかなかった。

 では、イエス・キリストは、この時何と答えられただろうか。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(3~5節)。

 イエス・キリストは、「神の業がこの人に現れるためである」と言われた。つまり、この盲人に「神の業」が現れるのを見ておられた。弟子達のように、病の原因を探るのではなく、病という現実の中に生きて働かれる主なる神の御業を見ていたのである。そこには、病に苦しむ盲人への思いやりと、何とかして彼を救おうとする心があった。

 それ故、イエス・キリストは、癒された盲人がファリサイ派の人々から非難されて追い出されたことを聞くと、再び彼に会って、こう言われた。「あなたは人の子を信じるか」(35節)。

「彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』」(38~39節)。

 イエス・キリストは、盲人の目を癒されただけでなく、彼がイエス・キリストを信じて、主なる神との交わりである永遠の命に生きる者となることを願っておられた。それ故、盲人の肉の目を開くだけでなく、霊の目、信仰の目も開かれた見えるということの真の意味がここにある。

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聖書日課 ヨハネによる福音書8章

聖書日課 ヨハネによる福音書8章(新共同訳 新約pp.180-184)

「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか』」(3~5節)

 一体誰が言い出したのだろうか。この女をイエス・キリストのところに連れて行こうと。それが誰であったにせよ、はっきりしているのは、「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言った」(6節)ということである。

 この場は、罪を犯した女への怒りと、何とかしてイエス・キリストを貶めようと、徒党を組み、息巻いてやって来た人々の興奮で、今にも爆発しそうな緊張感が漂っていたに違いない。

 しかし、この時、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」(6節)と聖書は記している。イエス・キリストが一体何を書いておられたのか、どうしてそうされたのか、聖書は何も説明していない。しかし、一つ言えるのは、イエス・キリストは、興奮した人々に即座に反応しなかったということである。つまり、イエス・キリストは、怒りや興奮に煽られることも、巻き込まれることもなかった。怒りに怒りをもって、興奮に興奮をもって対処しないことの大切さを思わされる。

 しかし、人々は、それでもなおしつこく問い続けた。そこで、イエス・キリストは遂に身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた(8節)。すると、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)と聖書は記している。

 この時、イエス・キリストは、律法の掟を守り「この女に石を投げなさい」と言われた。しかし、同時に、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず…」と言うことで、彼らが自分自身の罪に気付くようにさせた。

 私達は、自分の罪を棚上げにしない限り、他人の罪を裁くことは出来ない。つまり、誰も他の人の罪を裁くことは出来ない。罪のない方であるイエス・キリストだけが、人の罪を裁くことがお出来になる

 ところが、イエス・キリストはこの女性に言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(10節)。女が、「主よ、だれも」と言うと、イエス・キリストは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。

 ただ一人罪のない方、いや、全ての人の罪を身代わりに背負われた方「わたしもあなたを罪に定めない」と言われる。この大いなる赦しの愛に包まれる時、私達は罪を犯すことのない者とされていく。

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2021年4月11日(日) 週報

2021年4月11日(日) 復活節第2主日

○礼拝プログラム
招詞 詩編117編1~2節
讃美 9(ちからの主を ほめたたえまつれ)
交読 イザヤ書55章8~13節(新共同訳 旧約p.1153)
主の祈り
聖書拝読 マタイによる福音書28章18〜20節(新共同訳 新約p.60)
祈り 司式者
讃美 453(きけや愛の言葉を、もろ国人らの)
宣教 「世の終わりまで、主が共に」
讃美 502(いともかしこし イエスの恵み)
祈り
奉献
頌栄 542(世をこぞりて)
黙祷
報告

○報告
1. 礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。

2. 先週のイースター礼拝に教会員のご家族が県外からお越しになり、礼拝後交わりの時を持ちました。

3. 今月執事選挙を行います。受付に用紙と箱が置かれていますので、投票をお願い致します。開票は次週4月18日(日)の礼拝後に行います。

4. 2021年度の定期総会は、5月23日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日)に開催する方向で準備を進めていきます。総会後、教会の今後と牧師招聘に関する話し合いの第2回も併せて行います。今回も牧師不在の中で行うことになりますが、今年度取り組むべきことについて、皆で主の御心を祈り求めつつ臨みましょう。また、総会資料として、昨年度の活動報告・決算報告、今年度の活動計画案・予算案をご提出下さい。

5. 先月、南九州地方連合の年次総会(書面による)が実施され、議案は全て承認されました。その結果、2022年度沖縄で開催予定であったバプテスト大会は延期になりました。

6. 教会からの発信の手段として開設したブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージも載せています。URLは下記の通りです。
https://nschrist1972.hatenablog.com/

*過去の宣教から
「私たちもイエスに倣って、教会のお一人お一人のために『信仰が無くなりませんように』と祈りましょう。私たちが毎日教会の一人の方のために祈り続けるならば、その祈りが一人のペトロを生み出す事になるのです」(2014年8月31日、ルカによる福音書22章31~34節)

○聖書日課
11日(日) ヨハネによる福音書8章
12日(月) ヨハネによる福音書9章
13日(火) ヨハネによる福音書10章
14日(水) ヨハネによる福音書11章
15日(木) ヨハネによる福音書12章
16日(金) ヨハネによる福音書13章
17日(土) ヨハネによる福音書14章

聖書日課 ヨハネによる福音書7章

聖書日課 ヨハネによる福音書7章(新共同訳 新約pp.177-180)

「仮庵祭」(2節)は、秋の収穫の時期に行われ、イスラエルのエジプト脱出の際の天幕生活を記念する祭りである。毎年、多くのユダヤ人が、この祭りの時期にエルサレムに上り、一週間にわたる大祭を祝った。

 イエス・キリストも、この祭りを祝うためにエルサレムに上られた(10節)。そして、祭りも半ばになった頃、神殿の境内で教え始められた(14節)。すると、イエス・キリストをめぐって、人々の間に意見の衝突が起きた。或る人々は、イエス・キリスト「良い人だ」と言い、或る人々は「いや、群衆を惑わしている」と非難した(12節)。

 当然、「祭司長たちとファリサイ派の人々」、つまりエルサレムの宗教指導者はイエス・キリストを警戒した。そして、イエス・キリストを捕えるために下役たちを遣わした(32節)。しかし、イエス・キリストを逮捕することは出来なかった。イエス・キリストの時が、まだ来ていなかったからである。

 そのような緊迫した状況の中にあっても、祭りは盛大に続けられていた。そして、祭りのクライマックスとも言える終わりの日に、イエス・キリストは立ち上がって大声で言われた。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37~38節)

 祭りは盛大に祝われていた。多くの人々が満ち溢れ、エルサレムは大いに賑わっていた。しかし、そのような外側の賑わいとは裏腹に、人々の心は渇いていた。それは、形だけ上辺だけの宗教儀式では、決して癒されることのない心の奥底の渇きであった。

 イエス・キリストは、人々の中にあるその渇きを見抜いておられた。だからこそ「わたしのところに来て飲みなさい」と言われた。イエス・キリストを信じ、心と人生に迎え入れ、イエス・キリストとの真実で親密な交わりの中に生きる時、「その人の内から生きた水[聖霊]が川となって流れ出るようになる」。この聖霊との親密な交わりによって(39節)、私達の心の奥の渇きは癒される。

 今、あなたの心は渇いているだろうか。或いは潤っているだろうか。聖霊なる神との真実で親密な交わりの中に生きる喜びと平安が、あなたにも必要ではないか。

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聖書日課 ヨハネによる福音書6章

聖書日課 ヨハネによる福音書6章(新共同訳 新約pp.174-177)

 6章には、イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚によって五千人もの人々を満腹させたという奇跡が記されている(1~15節)。そして、この出来事を見聞きした人々は、驚きと共に大きな期待をイエス・キリストに寄せるようになった。イエス・キリストの周りには、ますます大勢の人々が群がるようになっていった。

 しかし、イエス・キリストは、この事態を決して喜んではおられなかった。寧ろ憂えておられた。というのも、人々がイエス・キリストに期待していたのは、この地上にユダヤ人の王国を築いてくれる救い主であり、自分達の腹を満たしてくれるメシアであることを、イエス・キリストは見抜いておられたからである。そのため、イエス・キリストは人々に次のように言われた。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」(26~27節)。

 ここで言われている、「永遠の命に至る食べ物のために働」くとは、「神がお遣わしになった者を信じること」(29節)であり、「人の子があなたがたに与える食べ物」とは、命のパンであるイエス・キリスト御自身を意味している。それでイエス・キリストはこう言われた。

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。

 ところが、このイエス・キリストの言葉を聞いた人々は、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(52節)と、互いに激しく議論し始めた。そして、やがては弟子達でさえも、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)と言って、多くが離れ去り、最早イエス・キリストと共に歩まなくなった(66節)。

 結局のところ、ユダヤ人も、また弟子達の多くも、自分達が思い描いていたメシア像をイエス・キリストに投影し、自分達の願いが実現することを期待していたに過ぎなかった。それ故、彼らは真のメシアであるイエス・キリストに躓いた。

 しかし、これは当時の弟子達だけの問題ではない。私達も、自分の願いを叶えてもらうことばかり求めているなら、イエス・キリストの教えが分からなくなり、イエス・キリストと共に歩まなくなる危険がある。主に信頼し、御心を求め、御心に従うこと、それが真のイエス・キリストの弟子であることを忘れてはならない。

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聖書日課 ヨハネによる福音書5章

聖書日課 ヨハネによる福音書5章(新共同訳 新約pp.171-174)

 いつ水が動くか分からない池のほとりで、じっとその瞬間を待ち続ける大勢の病人達…(3~4節)。或る意味で、それは時代と社会の縮図とも言える場所だった。

 このベトザタの池は、「羊の門の傍らに」あったと記されている(2節)。つまり、そのすぐ傍には、優雅で豪華絢爛なエルサレムの神殿がそびえていた。そして、そこには毎日大勢の人々が集っていた。多くの献げ物がささげられ、祭司達によって厳かな儀式が執り行われていた。

 しかし、その人々がベトザタの池の周りにいる病人達の所に来ることは殆どなかった。それどころか、祭司達でさえ、毎日その傍で奉仕していたにもかかわらず、彼らに手を差し伸べることはなかった。ベトザタの池の人々は、忘れられ、追いやられていたのである。

 ところが、イエス・キリストは、その場所に行かれた。そして、38年も病気で苦しんでいる人が、横たわっているのを見、また長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と声をかけられ(5~6節)、彼の病を癒された(8~9節)。

 この世の何に目を留め、どのような人々と共にいるか、その点に関してイエス・キリストと他のユダヤ人は、全く違っていた。人々は、病や痛みや貧しさを出来るだけ見ないようにして暮らしていた。しかし、イエス・キリストは、病人に手を差し伸べ、自ら痛みと貧しさを背負われた

 そして、その最終到達点が十字架の死であった。それによって、病を癒し、痛みを消し去り、貧しさを豊かさに変えるために、イエス・キリストは自ら十字架の上に命を献げて下さった。

 だから、もし今あなたが、病み、痛み、貧しさの中におられるなら、どうか忘れないでいただきたい。あなたの身代わりに十字架に死んで下さった救い主イエス・キリストが、あなたと共に、あなたの傍らにおられることを!

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聖書日課 ヨハネによる福音書4章

聖書日課 ヨハネによる福音書4章(新共同訳 新約pp.168-171)

 サマリア人の女性とイエス・キリストの出会いは、決して偶然の出来事ではなかった。この時イエス・キリストは、サマリアを通らねばならなかった」(4節)と記されている。どうしても通らなければならなかったのは、このサマリア人女性に会うためである。

 この女性は、今までに5回も結婚と離婚を繰り返し、現在は6人目の男性と同棲中という、町で評判の不道徳な女性だった(18節)。そのため、彼女は、水を汲むにも、人目を避けて太陽の一番高い「正午ごろ」に井戸に行かなければならなかった(6~7節)。

 しかし、イエス・キリストは、まさにその場所に先んじて行かれた。しかも、この時イエス・キリストは、「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」(6節)と記されている。イエス・キリストは、いつも燦然と輝く姿で現れるわけではない。弱く小さい者の姿をとって私達の前に現れることもある

 イエス・キリストは、この女性に「水を飲ませてください」(7節)と頼まれた。そこから、彼女とイエス・キリストの会話が始まった。そして、この女性は、自分の目の前にいるのが今までずっと探していた救い主(キリスト)であることを知った。

「女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである』」(25~26節)。

 すると、それまで人目を避けるように生きていたこの女性が、「水がめをそこに置いたまま町に行き」、人々に向かってこう言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(29節)。そして、聖書はこう記している。

「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」(39節)。

 イエス・キリストサマリアを通らねばならなかった」理由はここにある。

「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(コリントの信徒への手紙一1章27~28節)。

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聖書日課 ヨハネによる福音書3章

聖書日課 ヨハネによる福音書3章(新共同訳 新約pp.167-168)

 或る夜、ニコデモという人が、密かに教えを請うためにイエス・キリストのもとを訪れた(2節)。彼はファリサイ派に属する」「ユダヤ人たちの議員」だった(1節)。それは、当時のユダヤ社会において、高い宗教的学識と社会的地位を持つ人物であることを意味した。

 この時、イエス・キリストはニコデモに、信仰による新生について語られた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。しかし、ニコデモはこれを理解することが出来なかった(4節)。

 すると、イエス・キリストは、信仰による悔い改めと聖霊バプテスマによる新生についてこう教えられた。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。それでも、ニコデモはまだ分からなかった。

 そこで、イエス・キリストは遂にこう言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」(10~11節)。

 高い学識と社会的地位を持っていた筈のニコデモに、どうして福音の基本とも言える信仰、悔い改め、聖霊による新生が分からなかったのだろうか。それは、イエス・キリストが言われたように、彼らが「証しを受け入れない」からであった。つまり、イエス・キリストの教えを素直に信じて受け入れようとしなかったため、彼らは理解することが出来なかった。

 神の国は、理解することによってではなく、信じることによって見ることが出来、入ることが出来る世界である。頭で理解出来て分かるのではなく、信じて初めて分かる世界、それが神の国である。勿論、理性は大切である。しかし、まず信じなければ分からない世界があるのを知ることが必要である。

「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(15~16節)。

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聖書日課 ヨハネによる福音書2章

聖書日課 ヨハネによる福音書2章(新共同訳 新約pp.165-167)

 イエス・キリストと弟子達および母マリアが、カナで行われた結婚式に出席した(1~2節)。ところが、宴もたけなわの大事な時に、ぶどう酒が切れてなくなってしまった(3節)。

 当時、ユダヤ人の婚礼は、数日間にわたって村人総出で行う大事なイベントだった。その席でぶどう酒が切れてしまうというのは、主催者にとって、とりわけ花婿にとって、大恥をかく大失態だった。

 すると、母マリアがイエス・キリストのところに来て言った。「ぶどう酒がなくなりました」(3節)。「ぶどう酒がなくなったんだから、当たり前じゃない?」と思わないで欲しい。イエス・キリストは、招かれた客の一人であり、婚礼の主催者でも、宴会係でもなかった。しかし、この時マリアは信じていた。イエス・キリストなら、きっと何かしてくれる、と。

 それに対し、イエス・キリストは言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(4節)。「自分の母親に対して、何と冷たい言葉だろう」と思われるかも知れない。しかし、この時イエス・キリストは、マリアの言葉の中に、メシアであるイエスへの期待を感じ取ったのではないか。とはいえ、まだその時は来ていない。母親の願いといえども、主なる神の時を人間が決めることは出来ない

 しかし、イエス・キリストはその家の召し使い達に言われた。「水がめに水をいっぱい入れなさい」(7節)。そして、更に言われた。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」(8節)。すると、その水は上質のぶどう酒に変わっていた! この時、婚礼の世話役は、驚いて花婿に言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)。

 こうして、花婿の面目は守られ、婚礼は祝福の内に無事終わった。そして、ヨハネは最後にこう記している。

「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。

 宴が主の祝福で満たされ、主の栄光が現され、主への信仰が湧き上がる…とても嬉しくなってくるような美しいエピソードである。

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